溺愛の価値、初恋の値段
◆ ◆ ◆
無職となった翌日。
わたしは、ここ最近怠っていた部屋の掃除をすることにした。
冷蔵庫にぎっしり買いだめしてある主食のゼリー飲料を飲みながら、ベッドカバーやバスタオルなどの大物を洗濯機に入れる。
家具を動かして掃除機をかけ、窓を拭き、カーテンも外して洗うことにした。
面接で着る機会が増えるだろうシャツにアイロンをかけながら、テレビで流れるニュースを見ていたら、どことなく見覚えのある街の風景が映った。
中学生の頃住んでいたS市だ。
駅の近辺は、あの頃よりもさらに発展しているけれど、わたしが通っていた中学校の周辺はあまり変わっていない。
ドクン、と心臓が波打つ。
どれだけ時が過ぎようと、忘れられない記憶が固く閉ざした扉をこじ開けようとする。
香水の残り香。オムライス。宙を舞う紙片。そして……。
手が震え、吐き気が込み上げる。
(……消さなきゃ)
テレビのリモコンを握りしめ、電源を落とそうとした時、テロップに見覚えのある名前が映し出された。
『飛鷹 空也』
(え……?)
まったく同姓同名の人物を知っていた。
同じ中学校に通っていた、初恋の人。
画面を凝視する目に飛び込んで来たのは、俳優である司会者と並んでもまったく見劣りしない容姿の男性。
十六歳の時に、日本の某有名私立高校を中退して渡米。飛び級して十七歳であちらの大学に入学し、二十歳で修士号を取得して卒業。大学在学中に開発したソフトウェアを足がかりにして、大学時代の友人たちとベンチャー企業を立ち上げた。
今回、十年ぶりに帰国したのは、父親が会長を務めるグループ会社と提携するため。学校に通うことが困難な子どもたちの学習を支援する事業を立ち上げるのが目的らしい。
司会者は、華麗な経歴を紹介すると、尊敬する人物、影響を受けた本や映画、趣味、学生時代のことなどを尋ね、わたしの知らない「彼」をあきらかにしていく。
『好きな食べ物はなんですか?』
司会者の問いに、テレビの中の彼は恥ずかしそうに頭をかきながら答えた。
『基本的に、甘いものが好きなんですけれど……料理では、オムライスが一番好きですね。昔ながらの……ええ、そうです。卵の上にケチャップで文字を書いちゃうような。旗が立っていたら最高ですね!』
彼だ、と確信した瞬間、涙があふれた。
わたしが知る「飛鷹くん」は、オムライスが大好物だった。
いつも、わたしが作るオムライスを「美味しい」と言ってくれた。
テレビの向こうの彼は、爽やかで、気さくで、誠実そうで、司会者が言うとおりの「イケメンIT実業家」だ。
中学生の頃と同じように、ニコニコキラキラ王子の外面を維持しているだけなのかもしれないし、内面も変わって本物の王子様になったのかもしれない。
いずれにせよ、わたしには手の届かない遠い人になっていた。
最後の質問は、今後の予定。
『日本への帰国は、あくまで一時的なものですか?』
『まだ決めていません。会いたい友人が何人もいますし、旧交を温めるためにも、しばらくこちらにいようと思っていますが……』
テレビの画面から彼の姿が消えてしまっても、よみがえった思い出は消えてくれなかった。
会いたい、と思った。
でも、わたしは彼が「会いたい」と思う人たちの中には含まれていない。
むしろ、「二度と会いたくない」人間として分類されている。
彼にとって、わたしは三百万円で初恋を売った最低な人間だった。