にじいろの向こう側




瑞稀を出迎えた後に行った厨房


…恐らくここにいるだろうと思ったから。

あの人なら、瑞稀様が帰って来るタイミングでお茶の準備を始めるはずだって。


厨房に入ってった俺の形相に、少し、強ばる波田さん。
でも横にいる目的の奴はいつもと変わらない。


「おお、圭介君。ちょうど良かった。奥様が少しお出かけになると仰ってましてな。旦那様と瑞稀様と小夜子さんにお茶をお持ちするのを頼みたい。」


全く我関せずな様子でいつも通り。その態度に余計に頭に血が上る。


「…伊東さん。少し話せませんか。」

「今はお茶の準備が優先でしょう」

「伊東さん!」


俺を荒げた声に、カップを置く手が止まった。


「…圭介君、あなたは執事ですよ。」


そんなの俺だってわかってる。
だけど、このまま涼しい顔をして旦那様にお茶を出せる程、人間出来てないんだよ、俺は。


「伊東さん、奥様がお土産に買って来てくれたイタリアの紅茶を今日は出したらいかがでしょう。
少し入れ方が難しいようなので、私が代わりに入れさせて頂きます。小夜子さんもいらっしゃるので、お菓子も添えたいですし。
準備が出来たらお呼びしますので、少しの間待っていて頂けると。」


俺と伊東さんの間に、波田さんが割って入った。


「お二人ともその間、温室へ向かわれては。先ほど買い物から帰って来る時、涼太君と話をしましたが『今日はどの花をどこに飾ればいいか相談していない』と嘆いてましたから。」


穏やかに笑う波多さんに少しだけ冷静さを取り戻す。


…ありがとうございます、波多さん。

感謝の念を抱きつつ、裏口ドアから庭へと伊東さんを連れ出した。



「伊東さん…あなたは、先代の時からここで執事をされています。」


旦那様と奥様を気持ち良く迎え入れようと早起きした今日。朝一番に見上げた空はどこまでも透き通っていた。

今はそれが嘘だったみたいに、灰色の雲が覆っている。
息を吸い込んだら、少し湿った空気が肺に入り込んで来た気がした。


お勝手口のドアを静かに閉めた伊東さんの口元が俺の言葉に反応して少し弧を描いた気がした。


「…ここの家の事は、恐らく旦那様よりも詳しい。」

「これは…多少かいかぶりですよ、圭介くん。」

「はぐらかさないで下さい。あなたは咲月ちゃんの素性をご存知だったのでは無いですか?」

「何を根拠に…」

「訳あって咲月ちゃんの素性を調べました。その時、彼女の父親が多額の借金を残して死んだ事、そして、借金をしている相手が先代である事を知りました。
先代は、ごく一部の人にしかそれを知らせてはいなかった。」


フッと笑みを零した伊東さんがようやく俺と目線を交わす。

「…そのごく一部の一人が私だと?」

「あなたのここでの働きぶり、旦那様との信頼関係を見ていれば自ずと答えは導き出せます。そして…初めて咲月ちゃんに会った時にあなたは言いましたよね。
”瑞稀様とはどうなりました?”と。
あの時はただ若いメイドをからかっているだけだと思いました。しかし、裏打ちするものがあったからこその言葉だった。」


横からサアアッと吹いて来た風が頬を少し湿らせる。
それと共に、伊東さんの顔が少し穏やかになった気がした。


「あなたも、ただ真面目な優等生かと思っていたら…。」


飽きれた様に苦笑いで溜息をつく伊東さんに息が詰まるような感覚を覚え始めて、鼻の奥がツンとする。


…いや。
俺がここでヘタレてどうすんだ。
きちんと聞かないと、瑞稀の為に。


「…きっかけは瑞稀様の恋人宣言ですか?旦那様に咲月ちゃんの素性を調べろとでも言われて…。」


聞いた俺に伊東さんの表情から苦笑いが消え、呆れた表情だけが残る。


「あなたは旦那様を見くびっているのですか?そのような浅い方ではありませんよ、あの方は。」

「だったら…」

「瑞稀様とあなたこそ、旦那様に隠れてしていた事があるでしょう。」


咄嗟に浮かんだ智樹の顔。

いや、でもあれは瑞稀の個人口座でやった事…。


「旦那様は、瑞稀様の安易な行動にひどく胸を痛められたのですよ。」


安易って…。
瑞稀だって暫く悩んでたし、そんな大金ホイホイ出したわけじゃない。


そこには、葛藤もあったし、智樹への想いもあって。
受け取った智樹だって…断腸の想いだった。


旦那様も、伊東さんも経緯を見ていなかったくせに、そんな判断かよ。


「…見くびってんのは旦那様の方でしょ。しかも、瑞稀様の事を全く分かろうとしていない…。」

「圭介くん、言葉を慎みなさい。」


伊東さんの口調が少しキツくなったけど、それが余計に神経を逆なでして怒りが込み上げた。


「瑞稀様には絶対に咲月ちゃんが必要なんだよ!それは一番近くで見て来た俺が一番良くわかってる。」

「しかし、谷村家にとって必要なのは、小夜子さんだった、と言う話でしょう…。君だって、それは理解出来ない事ではあるまい?」


飽きれる様にまた溜息をつく伊東さんの冷静ぶりが更に俺の腑を煮え繰り返す。


「確かに、鳥屋尾さんは良い働きをしてくれた。久しぶりにお会いした瑞稀様は更に磨きのかかった人間へと成長されていましたから。その点は旦那様もお認めになられています。」

「認めて…って。」



もう、すんでの所まで来てたと思う、『頭に血が登る』って現象の。


「今の瑞稀様ならば、会長職をいずれ譲ってもとお考えにまでなっていたんです。旦那様は。」

「だから、今の瑞稀様があるのは、咲月ちゃんのおかげであって…」

「『跡取り』となる以上、それに相応しい伴侶を見つけなければなりませんからな。彼女はメイドと言う立場。そこに目を瞑ったとしても、谷村家が昔潰した会社の社長の娘を、と言うのは、体裁として難しい条件なのでしょう。」


…咲月ちゃんは、もう『用済みだ』っつーのかよ。


咄嗟に胸ぐらを掴んで、その背中を壁に押し付けた。


「あんたは…それで良いって本当に思ってんのかよ。」


睨みつけた俺をグレーの瞳が映し出して少し揺れた。


「…私は、谷村家の人間ではない。あくまでも執事です。旦那様の判断に背く事は出来ません。」


何だよ、それ…。
込み上げて来たものが視界をぼやけさせる。


俺は…いくら、あんたに理不尽な事言われても、厳しい事言われても、我慢出来たし、全部身にしようって考えてた。


それは、あんたみたいになりたいって心底想ってたからなんだよ。


込み上げて来た感情を抑えたら、簡単に視界がぼやけた。


……失望させんな。


「あんた…いつも俺の事『つまらんヤツだ』って言ってるよな。その言葉、そっくり返す。
あんたこそ、クソつまんねー人間だわ!」


目元から溢れ出そうになる雫を堪えて、襟元を突き放すとそのままその場を後にして温室へと向かう。大きく吸い込んだ空気がやけに肺に湿り気を齎した気がした。




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