にじいろの向こう側
.
小夜子様のお洋服をクローゼットに戻してから再び出た庭先
…もう、瑞稀様の傍らに居る事は許されない。
あまりにも早く、あっさり訪れた現実に何となくついて行けない自分が居て鼻の奥がツンとした。
情けないな…。
奥様に『覚悟は出来ています』なんていったクセに。
正門に回って、そこから西側に少し行った倉庫。
裏手に回る直前で
「…鳥屋尾様?」
突然、透き通る様な声が聞こえて来た。
目を見開いた私に、声を発した主が品よく笑って会釈をする。
…秘書の、上田…さん…。
「…どうぞ。」
差し出された白いシルクのハンカチがそれが微妙にぼやけていて、気がついた。
…そっか、私泣いていたんだ。
見られた恥ずかしさと、どうせ見られてしまったんだと言う諦めの境地でそっとそのハンカチを受け取る。
「ありがとうございます…上田様」
優しく笑う上田さんのその手が私の背中に伸びてきた。
「光栄です。お名前を覚えていて下さって。」
少し擦ってくれて、「こちらへ参りましょう」とそのまま倉庫裏へと促された。
腰を下ろした私の隣に上田さんも座る。
背中をまた少し擦ってくれてから、呟く様に口を開いた。
「…私は瑞稀様が社長に就任した2年後から専任秘書になりました。
とても頭の回転の良い方で、相手の考えや物事を先回りして考える事が出来る…出会った時からそんな方でした。
ですが…瑞稀様はだいぶ変わられたと思います。」
「変わった…?」
「最初にはっきり変化を見たのは、専任秘書になって1年後位。
この家に薮さんと庭師の…武井さんがいらっしゃった時です。
より柔軟にお仕事される様になったと申しますか…実績としても、そこからの2、3年がめまぐるしく会社の景気が上向きになりましたし…取引先もグンと増え、社長を頼る方が増えました。」
何となく…わかるかな、それは。
『瑞稀、今日の花、結構匂いキツいかも』
『…匂いキツいのに飾る。さすがは涼太。』
『や、圭介、そこ褒めるところじゃないから。俺、一応主人なんですよ…そこはさ、庭師として配慮を…』
『いや、この花、今日飾らないと、次は1年後しか会えないから。』
『そうなの?ま、まあ…涼太がそう言うならいいけどさ…って結構な匂いだね、これ。』
あの三人には強い繋がりを感じる。
お互いまっさらな、『好意』を。
そんな人が近くに居たら、刺激を受け合っていい影響が出るんだろうなって…。
三人のやり取り思い出して頬を緩ませたら上田さんも呼応する様に微笑んだ。
「…そして、今、半年程前からまただいぶ変わられたなと思っています。」
…不思議、だな。
奥様も、小夜子様も、同じ様に品よく柔らかく笑うのに。
この人と居ると何て言うか…包み込まれる感じがして落ち着く…。
少し握りしめたハンカチからは、あのハンドクリームによく似た柑橘系の良い香りが漂って来ていつのまにか涙が止まっていた。
「社長は最近…何と言うか、我侭になりました」
「わ、我侭…ですか?」
上田さんは、凄いニコニコして言っているけど…。
「あ、あの…それは良い変化なのですか…?」
「もちろんです。」
クスクスと笑う上田さんの柔らかい髪が少し風を受けてフワリと浮いたら、ハンカチと同じ柑橘系の良い香りが鼻をくすぐる。
「先ほども言った様に社長は人の気持ちや物事を常に先回りして考える方で。
つまりは少し…何と言うか、冷めてる所がありました。
経営者において、冷静な事はとても重要だと思います。
ただ、社長自身はそれによって、身を削っているんだろうと。」
そう言えば、出会った頃の瑞稀様は私に伺う様な瞳を向けていた。
それが凄く悲しくて嫌で、私も必死だったな。
「口では強い事を仰っていますが、それはきっと周りに弱さを見せる事を許されないと思っていらっしゃるから。
自分は、しっかり者を演じなければならないと…我侭を言ってはいけない、会社の為ではなく『自分自身の為の』欲を持ってはいけない、そう思われているのかなと…。」
不意に手が伸びて来て前髪を少し直された。
「少し、跳ねていました。」
「あ、すみません…。」
上田さんのスマホのバイブが鳴った。
「ちょっとすみません。…はい。お疲れ様です。はい、正面玄関の車の所に…はい。わかりました」
スマホを切ると、立ち上がってまた私の手を引いて立たせるとまた柔らかく微笑む上田さん。
「…以前ここへ社長をお迎えに来た時から、あなたと一度お話をしたかったんです。」
「わ、私と…ですか?」
「はい。社長に我侭を言わせる女性がどのような方なのか知りたくて。」
少し口元に手を置いて隠すとふわりと笑う。
「…衝撃でした、私にとって。
社長がごく自然に、ごく当たり前に女性の頭を撫でる光景が。」
今度は「曲がってます」とスカーフを少し直された。
「あ、あの…。」
その優しい所作に、思わずハンカチを握りしめる
「その、私は、会社での瑞稀様は全く知りません。…実際それでいいって思ってるし。
その…。」
ど、どうしよう…。
何が言いたいのか分からなくなった。
ただ、何となく上田さんのしてくれた話に私も答えなきゃと思って…
思って……
……。
「…ハンカチありがとうございます。必ずお返し致します。」
ああ…私、本当にダメだな…。
自分の愚かさ加減に落胆して思わず俯いたら、差し出された名刺。
「何かありましたらいつでもご連絡を」
「あ、ありがとうございます…。」
「社長は会社にとっても私にとってもとても必要な方であるのは紛れもない事実。
そう言う存在になったのは、社長の長年の弛まぬ努力があってこその事。
…ですが。それだけでは無いと私は思います。」
一礼をすると静かにヒールを響かせて去って行った。
『それだけではない』…。
上田さんのハンカチをギュッともう一度握りしめたら大きく深呼吸したら爽やかな風に乗って柑橘系の香りがまた漂って来た。
…とにかく、仕事をしよう。
お洗濯物をたたまなきゃ。
今は…『いつも通り』にメイドとして働く事がきっと瑞稀様のお気持ちを軽くする事だと思うから。
足早に倉庫裏を出ると正面玄関に回ったら、丁度薮さんと上田さんが停めてある車の前で話しているのが見えた。
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小夜子様のお洋服をクローゼットに戻してから再び出た庭先
…もう、瑞稀様の傍らに居る事は許されない。
あまりにも早く、あっさり訪れた現実に何となくついて行けない自分が居て鼻の奥がツンとした。
情けないな…。
奥様に『覚悟は出来ています』なんていったクセに。
正門に回って、そこから西側に少し行った倉庫。
裏手に回る直前で
「…鳥屋尾様?」
突然、透き通る様な声が聞こえて来た。
目を見開いた私に、声を発した主が品よく笑って会釈をする。
…秘書の、上田…さん…。
「…どうぞ。」
差し出された白いシルクのハンカチがそれが微妙にぼやけていて、気がついた。
…そっか、私泣いていたんだ。
見られた恥ずかしさと、どうせ見られてしまったんだと言う諦めの境地でそっとそのハンカチを受け取る。
「ありがとうございます…上田様」
優しく笑う上田さんのその手が私の背中に伸びてきた。
「光栄です。お名前を覚えていて下さって。」
少し擦ってくれて、「こちらへ参りましょう」とそのまま倉庫裏へと促された。
腰を下ろした私の隣に上田さんも座る。
背中をまた少し擦ってくれてから、呟く様に口を開いた。
「…私は瑞稀様が社長に就任した2年後から専任秘書になりました。
とても頭の回転の良い方で、相手の考えや物事を先回りして考える事が出来る…出会った時からそんな方でした。
ですが…瑞稀様はだいぶ変わられたと思います。」
「変わった…?」
「最初にはっきり変化を見たのは、専任秘書になって1年後位。
この家に薮さんと庭師の…武井さんがいらっしゃった時です。
より柔軟にお仕事される様になったと申しますか…実績としても、そこからの2、3年がめまぐるしく会社の景気が上向きになりましたし…取引先もグンと増え、社長を頼る方が増えました。」
何となく…わかるかな、それは。
『瑞稀、今日の花、結構匂いキツいかも』
『…匂いキツいのに飾る。さすがは涼太。』
『や、圭介、そこ褒めるところじゃないから。俺、一応主人なんですよ…そこはさ、庭師として配慮を…』
『いや、この花、今日飾らないと、次は1年後しか会えないから。』
『そうなの?ま、まあ…涼太がそう言うならいいけどさ…って結構な匂いだね、これ。』
あの三人には強い繋がりを感じる。
お互いまっさらな、『好意』を。
そんな人が近くに居たら、刺激を受け合っていい影響が出るんだろうなって…。
三人のやり取り思い出して頬を緩ませたら上田さんも呼応する様に微笑んだ。
「…そして、今、半年程前からまただいぶ変わられたなと思っています。」
…不思議、だな。
奥様も、小夜子様も、同じ様に品よく柔らかく笑うのに。
この人と居ると何て言うか…包み込まれる感じがして落ち着く…。
少し握りしめたハンカチからは、あのハンドクリームによく似た柑橘系の良い香りが漂って来ていつのまにか涙が止まっていた。
「社長は最近…何と言うか、我侭になりました」
「わ、我侭…ですか?」
上田さんは、凄いニコニコして言っているけど…。
「あ、あの…それは良い変化なのですか…?」
「もちろんです。」
クスクスと笑う上田さんの柔らかい髪が少し風を受けてフワリと浮いたら、ハンカチと同じ柑橘系の良い香りが鼻をくすぐる。
「先ほども言った様に社長は人の気持ちや物事を常に先回りして考える方で。
つまりは少し…何と言うか、冷めてる所がありました。
経営者において、冷静な事はとても重要だと思います。
ただ、社長自身はそれによって、身を削っているんだろうと。」
そう言えば、出会った頃の瑞稀様は私に伺う様な瞳を向けていた。
それが凄く悲しくて嫌で、私も必死だったな。
「口では強い事を仰っていますが、それはきっと周りに弱さを見せる事を許されないと思っていらっしゃるから。
自分は、しっかり者を演じなければならないと…我侭を言ってはいけない、会社の為ではなく『自分自身の為の』欲を持ってはいけない、そう思われているのかなと…。」
不意に手が伸びて来て前髪を少し直された。
「少し、跳ねていました。」
「あ、すみません…。」
上田さんのスマホのバイブが鳴った。
「ちょっとすみません。…はい。お疲れ様です。はい、正面玄関の車の所に…はい。わかりました」
スマホを切ると、立ち上がってまた私の手を引いて立たせるとまた柔らかく微笑む上田さん。
「…以前ここへ社長をお迎えに来た時から、あなたと一度お話をしたかったんです。」
「わ、私と…ですか?」
「はい。社長に我侭を言わせる女性がどのような方なのか知りたくて。」
少し口元に手を置いて隠すとふわりと笑う。
「…衝撃でした、私にとって。
社長がごく自然に、ごく当たり前に女性の頭を撫でる光景が。」
今度は「曲がってます」とスカーフを少し直された。
「あ、あの…。」
その優しい所作に、思わずハンカチを握りしめる
「その、私は、会社での瑞稀様は全く知りません。…実際それでいいって思ってるし。
その…。」
ど、どうしよう…。
何が言いたいのか分からなくなった。
ただ、何となく上田さんのしてくれた話に私も答えなきゃと思って…
思って……
……。
「…ハンカチありがとうございます。必ずお返し致します。」
ああ…私、本当にダメだな…。
自分の愚かさ加減に落胆して思わず俯いたら、差し出された名刺。
「何かありましたらいつでもご連絡を」
「あ、ありがとうございます…。」
「社長は会社にとっても私にとってもとても必要な方であるのは紛れもない事実。
そう言う存在になったのは、社長の長年の弛まぬ努力があってこその事。
…ですが。それだけでは無いと私は思います。」
一礼をすると静かにヒールを響かせて去って行った。
『それだけではない』…。
上田さんのハンカチをギュッともう一度握りしめたら大きく深呼吸したら爽やかな風に乗って柑橘系の香りがまた漂って来た。
…とにかく、仕事をしよう。
お洗濯物をたたまなきゃ。
今は…『いつも通り』にメイドとして働く事がきっと瑞稀様のお気持ちを軽くする事だと思うから。
足早に倉庫裏を出ると正面玄関に回ったら、丁度薮さんと上田さんが停めてある車の前で話しているのが見えた。
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