にじいろの向こう側
.
身支度を整えて降りて行ったロビーには圭介さんの姿があった。
足を止めた私に優しく微笑んで軽く会釈する。
「咲月ちゃん、おはよう。ちょっと一緒に来てくれる?」
どことなく警戒の色を示した私に、眉を下げた。
「安心してよ、屋敷に連れ戻す様な事はしないから。」
…きっとそんなこと、圭介さんはしない。そうは思うけれど。
では…一体どこへ…?
言われるままについて行った先は、予想外の所で。けれど、よく知っている所だった。
風が右から左へと吹き抜ける。梅雨の合間の晴れは、日差しを水面に燦々と注ぎ、土手を走る子供達の笑い声が、そこにより明るさを添える。
…変わらない風景。
「あ……。」
何度来るなと言われても、来ていた…河原。
今日も鉄橋が陽の光に照らされてキレイに光っていた。
そのほとりにスケッチブックを広げて、沢山の絵の具に囲まれている猫背がぼやける。
智樹…さん…。
「…色々あってさ。驚愕なミラクルとか?でもって、連れ戻してみた。つっても、『探して』つったのは瑞稀様だけどね。」
瑞稀様が…?
その背中を見つめている私の隣に立った圭介さんは、ニッと唇の片端をあげて笑う。
「まあ…退職祝いっつーか、お餞別っつーか、そんな感じって事で。会ってやってくれる?」
もう、涙が溢れる寸前だった私の背中をそっと押した。
「俺の役目はここまで。後は智樹君とよく話して?」
「またね」と去って行く圭介さんの背中を今度は見ながら、深く会釈をした。
圭介さん…ずっと…出会った時から優しく、そして沢山助けていただきありがとうございました。圭介さんがいなければ、きっと私は瑞稀様と知り合うことも、そして、瑞稀様とのかけがえのない時間をたくさん作ることもできなかった。
小さくなったその背中に今一度感謝の気持ちを込めると、くるりと背中を向けて、河原の方へ向き直す。
迷いはなかった。
足は真っすぐ智樹さんへと向かう。
「智樹さん!」
私の大きな呼びかけにビクンと身体が揺れ、智樹さんがのっそりと振り返る。
「びっくりした…。」
けれど、ずっと変わらないふにゃりとした笑顔がそこにはあって。
「参ったよね…圭介ちゃんに連れ戻されちった。」
それに張りつめてた何かが一気に緩んで、ヘナヘナとその場に座り込んだら感情が涙で溢れ出した。
「…結局咲月ちゃんを傷つけちったなあ。俺、親父にどやされんな、これ。」
臥せたまま、ただ嗚咽を繰り返す私の頬に、智樹さんのスラリとした指先が触れる。「ん」って差し出されたハンカチに、顔をあげると智樹さんは苦笑いをした。
受け取ったハンカチで涙を拭うと少しだけ絵の具の匂いがする。
懐かしい…智樹さんの匂いだ。
不思議と気持ちが、すっと安心を覚えた。
「…親父はさ、ずっと咲月ちゃんのお母さんが好きだったんだと思う。」
私の隣に改めて腰を下ろした智樹さんは、スケッチブックを開き、そこにサラサラと絵を描き始める。
「どうこうしたいって気持ちはなくて、ただ一緒に居られればそれで良いって思ってたみたい。
だから借金の肩代わりを名乗り出て、咲月ちゃん達二人をメイドとして受け入れた。
…まあ。
ああいう安易な親父だから。許してやって?ついでに俺も。」
「智樹…さんも?」
首を傾げたら、ピタリと鉛筆を動かす手が止まり、私を見る智樹さんは、また苦笑いになった。
「…なんだよ。あいつ、そこだけ言ってねーのかよ。かっこつけだな…。」
「そこだけ…言ってないって…?」
んーと少し悩んでから、智樹さんはふうと一度息を吐く。
それから、「まあ…じゃあ俺が言っても良いって事だよな。」と何かを一人で納得して、また鉛筆を動かし始めた。
「…咲月ちゃんが仕えてたご主人さ。」
「瑞稀様?」
「そう、そいつと咲月ちゃんは昔、結婚の約束をしてたんだよ。瑞稀様のじいさんと咲月ちゃんの両親で。」
「え…?
で、でも、瑞稀様のおじいさまに借金を背負わされたと…。」
「知らなかったみたいよ?部下だか親戚だかが勝手にやった事みたいで。
だからさ…俺が、親父からその手紙を見せられた時、『やっぱそいつに会わせてあげねーとな…』って思っちゃったんだよね。」
そんな事…瑞稀様一言も言わなかった。
「余計なお世話だったよな…」って呟く智樹さんに、一生懸命首を横に振る。
だって…智樹さんが圭介さんに私を託さなかったら瑞稀様に出会えてなかったから。
瑞稀様に出会えないなんて、絶対、絶対、嫌だ
「智樹さん…ありがとうございます…。」
「んや…。
でも、後で自分で馬鹿だな~って思ったけどね。」
「え…?」
「だって、あのまま、一緒に暮らして、頑張って借金返してりゃ、咲月ちゃん、嫁に来てくれたかもしんねーのに。
俺、結構シメシメって思ったんだけどね、親父と咲月ちゃんの母さんが約束してたって聞いて。」
「あ…や…。」
どう返して良いか分からなくて俯いたら、頭の上に掌がポンポンって乗っかった。
「ご、ごめんなさい…。」
「えーよ?俺は。咲月ちゃんにそう言う感情なくてもへーき。」
落とした目線に入り込んで来た一枚の絵
元のご主人様とお母さん、そして私が楽しそうに笑ってる…温かくて素敵な…
「俺は…『咲月ちゃんとは家族になれた』って思ってるから。それで充分。」
溢れた涙をそこに落ちる前に智樹さんの指で掬い取られた。
「まあ…さ。当事者である咲月ちゃんを介さないでやり取りしたのは悪かったって思うけど。
なんつーか…みんな咲月ちゃんを守ろうって必死だったから…許してくんねーかな。
…あいつの事も。」
「ゆ、許す…だなんて…。」
だって、お母さんも、元のご主人様も、智樹さんも…そして瑞稀様も。
皆、本当に優しくて、私の事を大切にしてくれた。
沢山…愛情をくれた。
こんな…私なんかの為に。
ううん、4人だけじゃない、色々な人達が私を支えてくれてた。
止めどなく溢れ出る泪と一緒に沢山、皆の笑顔が浮かんでは消えて行く。
ありがとうございます…会えなくても大切な人達。
今、私があるのは、皆が私を育んでくれたから。
だから、会えなくなった事を寂しく思うんじゃなくて、会えないからこそ、ずっと覚えておきます。
大切な人達の…笑顔も、優しさも。
そして何より…瑞稀様への想いも。
少しだけ大きな雲が日を隠して陰りを河原に作る。どことなく湿った風が舞って涙の後をひんやりとさせた。
「咲月ちゃん…これからどうする?」
「これから…ですか?」
ハンカチで改めて涙を拭いて見つめた先の智樹さんは、少しだけ困り顔で首を傾げた。
「や…圭介から経緯を聞いたからさ。ごめん。もうちょっと早く帰って来てあげてたら、違ったかもな。」
「い、いえ…。そこは多分私は…変わらなかったかもしれません。」
そう答えたら、クッと笑ってそっと優しく私の頭を撫でた。
「まあ…ともあれ、晴れて咲月ちゃんも自由な身だしね?
また…一緒に暮らすか?」
智樹さんと…また一緒に…?
「さっきも言ったけど、家族みてーなもんだし。
俺は咲月ちゃんが居てくれると嬉しいけど。」
智樹さんの提案に、少しだけハンカチをギュッと握りしめたら
~♪~♪~♪
同じタイミングで、鞄の中でスマホが着信を知らせた。
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身支度を整えて降りて行ったロビーには圭介さんの姿があった。
足を止めた私に優しく微笑んで軽く会釈する。
「咲月ちゃん、おはよう。ちょっと一緒に来てくれる?」
どことなく警戒の色を示した私に、眉を下げた。
「安心してよ、屋敷に連れ戻す様な事はしないから。」
…きっとそんなこと、圭介さんはしない。そうは思うけれど。
では…一体どこへ…?
言われるままについて行った先は、予想外の所で。けれど、よく知っている所だった。
風が右から左へと吹き抜ける。梅雨の合間の晴れは、日差しを水面に燦々と注ぎ、土手を走る子供達の笑い声が、そこにより明るさを添える。
…変わらない風景。
「あ……。」
何度来るなと言われても、来ていた…河原。
今日も鉄橋が陽の光に照らされてキレイに光っていた。
そのほとりにスケッチブックを広げて、沢山の絵の具に囲まれている猫背がぼやける。
智樹…さん…。
「…色々あってさ。驚愕なミラクルとか?でもって、連れ戻してみた。つっても、『探して』つったのは瑞稀様だけどね。」
瑞稀様が…?
その背中を見つめている私の隣に立った圭介さんは、ニッと唇の片端をあげて笑う。
「まあ…退職祝いっつーか、お餞別っつーか、そんな感じって事で。会ってやってくれる?」
もう、涙が溢れる寸前だった私の背中をそっと押した。
「俺の役目はここまで。後は智樹君とよく話して?」
「またね」と去って行く圭介さんの背中を今度は見ながら、深く会釈をした。
圭介さん…ずっと…出会った時から優しく、そして沢山助けていただきありがとうございました。圭介さんがいなければ、きっと私は瑞稀様と知り合うことも、そして、瑞稀様とのかけがえのない時間をたくさん作ることもできなかった。
小さくなったその背中に今一度感謝の気持ちを込めると、くるりと背中を向けて、河原の方へ向き直す。
迷いはなかった。
足は真っすぐ智樹さんへと向かう。
「智樹さん!」
私の大きな呼びかけにビクンと身体が揺れ、智樹さんがのっそりと振り返る。
「びっくりした…。」
けれど、ずっと変わらないふにゃりとした笑顔がそこにはあって。
「参ったよね…圭介ちゃんに連れ戻されちった。」
それに張りつめてた何かが一気に緩んで、ヘナヘナとその場に座り込んだら感情が涙で溢れ出した。
「…結局咲月ちゃんを傷つけちったなあ。俺、親父にどやされんな、これ。」
臥せたまま、ただ嗚咽を繰り返す私の頬に、智樹さんのスラリとした指先が触れる。「ん」って差し出されたハンカチに、顔をあげると智樹さんは苦笑いをした。
受け取ったハンカチで涙を拭うと少しだけ絵の具の匂いがする。
懐かしい…智樹さんの匂いだ。
不思議と気持ちが、すっと安心を覚えた。
「…親父はさ、ずっと咲月ちゃんのお母さんが好きだったんだと思う。」
私の隣に改めて腰を下ろした智樹さんは、スケッチブックを開き、そこにサラサラと絵を描き始める。
「どうこうしたいって気持ちはなくて、ただ一緒に居られればそれで良いって思ってたみたい。
だから借金の肩代わりを名乗り出て、咲月ちゃん達二人をメイドとして受け入れた。
…まあ。
ああいう安易な親父だから。許してやって?ついでに俺も。」
「智樹…さんも?」
首を傾げたら、ピタリと鉛筆を動かす手が止まり、私を見る智樹さんは、また苦笑いになった。
「…なんだよ。あいつ、そこだけ言ってねーのかよ。かっこつけだな…。」
「そこだけ…言ってないって…?」
んーと少し悩んでから、智樹さんはふうと一度息を吐く。
それから、「まあ…じゃあ俺が言っても良いって事だよな。」と何かを一人で納得して、また鉛筆を動かし始めた。
「…咲月ちゃんが仕えてたご主人さ。」
「瑞稀様?」
「そう、そいつと咲月ちゃんは昔、結婚の約束をしてたんだよ。瑞稀様のじいさんと咲月ちゃんの両親で。」
「え…?
で、でも、瑞稀様のおじいさまに借金を背負わされたと…。」
「知らなかったみたいよ?部下だか親戚だかが勝手にやった事みたいで。
だからさ…俺が、親父からその手紙を見せられた時、『やっぱそいつに会わせてあげねーとな…』って思っちゃったんだよね。」
そんな事…瑞稀様一言も言わなかった。
「余計なお世話だったよな…」って呟く智樹さんに、一生懸命首を横に振る。
だって…智樹さんが圭介さんに私を託さなかったら瑞稀様に出会えてなかったから。
瑞稀様に出会えないなんて、絶対、絶対、嫌だ
「智樹さん…ありがとうございます…。」
「んや…。
でも、後で自分で馬鹿だな~って思ったけどね。」
「え…?」
「だって、あのまま、一緒に暮らして、頑張って借金返してりゃ、咲月ちゃん、嫁に来てくれたかもしんねーのに。
俺、結構シメシメって思ったんだけどね、親父と咲月ちゃんの母さんが約束してたって聞いて。」
「あ…や…。」
どう返して良いか分からなくて俯いたら、頭の上に掌がポンポンって乗っかった。
「ご、ごめんなさい…。」
「えーよ?俺は。咲月ちゃんにそう言う感情なくてもへーき。」
落とした目線に入り込んで来た一枚の絵
元のご主人様とお母さん、そして私が楽しそうに笑ってる…温かくて素敵な…
「俺は…『咲月ちゃんとは家族になれた』って思ってるから。それで充分。」
溢れた涙をそこに落ちる前に智樹さんの指で掬い取られた。
「まあ…さ。当事者である咲月ちゃんを介さないでやり取りしたのは悪かったって思うけど。
なんつーか…みんな咲月ちゃんを守ろうって必死だったから…許してくんねーかな。
…あいつの事も。」
「ゆ、許す…だなんて…。」
だって、お母さんも、元のご主人様も、智樹さんも…そして瑞稀様も。
皆、本当に優しくて、私の事を大切にしてくれた。
沢山…愛情をくれた。
こんな…私なんかの為に。
ううん、4人だけじゃない、色々な人達が私を支えてくれてた。
止めどなく溢れ出る泪と一緒に沢山、皆の笑顔が浮かんでは消えて行く。
ありがとうございます…会えなくても大切な人達。
今、私があるのは、皆が私を育んでくれたから。
だから、会えなくなった事を寂しく思うんじゃなくて、会えないからこそ、ずっと覚えておきます。
大切な人達の…笑顔も、優しさも。
そして何より…瑞稀様への想いも。
少しだけ大きな雲が日を隠して陰りを河原に作る。どことなく湿った風が舞って涙の後をひんやりとさせた。
「咲月ちゃん…これからどうする?」
「これから…ですか?」
ハンカチで改めて涙を拭いて見つめた先の智樹さんは、少しだけ困り顔で首を傾げた。
「や…圭介から経緯を聞いたからさ。ごめん。もうちょっと早く帰って来てあげてたら、違ったかもな。」
「い、いえ…。そこは多分私は…変わらなかったかもしれません。」
そう答えたら、クッと笑ってそっと優しく私の頭を撫でた。
「まあ…ともあれ、晴れて咲月ちゃんも自由な身だしね?
また…一緒に暮らすか?」
智樹さんと…また一緒に…?
「さっきも言ったけど、家族みてーなもんだし。
俺は咲月ちゃんが居てくれると嬉しいけど。」
智樹さんの提案に、少しだけハンカチをギュッと握りしめたら
~♪~♪~♪
同じタイミングで、鞄の中でスマホが着信を知らせた。
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