にじいろの向こう側




笑っ…た。


俺が半ば無理矢理巻いたマフラーに少しだけ埋もれた口元が微かに弧を描いてる。

目を細めた分、俺への眼差しが柔らかく感じるその表情。


初めて間近で見た、咲月の笑顔。


漸く、『俺にも笑えよ』と言う浅はかな念願が叶ったのも加味してるんだと思うけど、吸い寄せられる様に急激に惹かれて。

半ば無意識だったと思う。

俺を真っすぐに見つめているその柔らかい表情に思わず腕を伸ばしかけた。


コンコン

「失礼致します。コーヒーをお持ち致しました。」


圭介の言葉に身体がビクリと反応する。咄嗟に咲月に背を向け、ごまかすようにタブレットに目を落とした。


…そういやドア、開いてたな。
この人、抱えきれない位の花束を持っていたから。


「…では、私はこれで。本当にありがとうございます。」


マフラーを巻いたままお辞儀をして部屋を出て行く咲月を見送りながらドサッとソファーに深く腰掛けた。


「…何。」

「…いえ。」


コーヒーをカップへと注ぐ圭介の口の端がどう考えても上がってる。


「薮」

「はい。」

「…いつからいた?」

「いえ…私は。」


ソファのサイドテーブルに置かれたコーヒーが柑橘系のハンドクリームの香りを消して去ってく。


「…俺は好きだけどね。ドアが開いているのにも気が付かない位、必死な瑞稀。」

「!!!!」

「ま、ちょっと強引だけど、相手はメイドさんだし。その位が丁度いいのかもね」

「け、圭介…まさか。」

「あ、これは失礼致しました。ハンドクリーム、ちゃんと坂本さんにも渡しておきましたので。
…まあ、自ら塗ると言うサービスはしておりませんが。」

「け、圭介!」


ははって笑うと丁寧に頭を下げてワゴンをカラカラと運んで行く圭介。

…最悪だわ。
ほぼ一部始終見てたんじゃん…。


溜息まじりに、カップを顔に近づけたら、コーヒーの香りをぬって、掌からハンドクリームの匂いが漂って来る。


『ありがとうございます』


…笑ってくれた、やっと。


カップに付けた口の端が緩むのが自分でも分かる。


なんだろう、この感じ。
笑顔を向けられるってこんな喜ばしい事だったっけ。


…もうすっかり感覚、忘れてたわ、そんな感情。



「…そう言えば鳥屋尾、ここに務め出してから、初めて、外出しましたよ。一昨日。」


ドアノブに手をかけた圭介が思い出した様に再び口を開いた。


「…外出?いや、だって、あの人がここに勤め出して2ヶ月位でしょ、初めてって…」

「今まで、この屋敷に慣れる為なのか、一度も外出せずに涼太や坂本さんのお手伝いをしてましたから。」


休みの日も働いてた…この屋敷に慣れる為に?


「真面目過ぎるだろ、それ…」


少し眉をひそめた俺に意味ありげにまた口の端を少しあげる圭介。


「…『真面目』はそうなんだろうけど。それだけじゃないとは思うよ。」

「は?」

「あ、これはまた失礼致しました。
とにかく、『早く慣れよう』と仕事を一度も休まなかった彼女が休んでまで出掛けた。よほど行きたい所があったみたいですね、彼女に。」



圭介はそう言葉を残し、「失礼致します」と丁寧におじぎをして去って行った。


パタン…と静かな音を立てたドア。何となく、そこを見つめた。


…俺、今すごい理不尽な事考えたな。


別に構わない。休暇を使って外出することは、働いている者の権利なんだから。

メイドだって、ちゃんと休みとらないと。
そんなさ、働き詰めでずっとその仕事してていい人なんていないんだから、俺じゃあるまいし。
まして、リフレッシュの為に外出したって、それは咲月の勝手だから。


「……。」



『ありがとうございます』


脳裏を過ったあの微笑み。無性にその笑顔が恋しくなって、落ち着かなくなった心の中。


「あ〜……」


それを落ち着かせようって大きく深呼吸して天井を仰いだら、余計に微笑みに会いたくなって、思わず掌で顔を覆った。


途端にハンドクリームの香りが鼻をくすぐる。


…当たり前の事なんだけどさ。
咲月の事は、この屋敷で目の当たりにしてるあの人しか俺は知らないわけで。


それで良いと思うんだよ。
メイドと主人の関係なんてそんなもんだって。


だから…圭介に話を聞かされた瞬間に『どこに行ってた?』と言う軽い興味を通り越して『“トクベツな”誰かに会っていた?』と勘ぐり、知りたいと思ってしまったのは、自分勝手…だよな、俺が。



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