にじいろの向こう側





“大人しく俺にキスされな”



瑞稀様の降り掛かる吐息が唇をかすめ、胸が締めつけられた。

次の瞬間、柔らかく温かな感触に唇が包まれる。


私…瑞稀様とキスしてる…。


戸惑いはもちろん大きいけれど、啄む様に、けれど丁寧な優しい口づけに甘さを感じ、幸福感すらわき起こる。

“拒む”は選択肢に浮かばなかった。


「…明日は確か10時位かな、ここ出るの。」


唇を解放され、おでこ同士が触れ合う。それが昨日とは違い温かく、そして優しく思えて、鼻の奥がツンと痛みを覚えた。


「ネクタイ、よろしくね?」
「い、いいんですか?」


思わず少し身体を離し瑞稀様を見上げると、その表情が少し不服そうな顔に変わる。”離れるな”と言わんばかりに、また腰を引き寄せられておでこをくっつけられた。

「ネクタイを結ぶの、咲月の仕事でしょ?
昨日、咲月が結んでくれなかったおかげで、『曲がってる』って指摘されて恥かいたんだけど。」

「も、申し訳ございません…」

「明日からはちゃんと結んでよ?」

嬉しい……。
明日からまた、瑞稀様のネクタイを結べるんだ。


「何か、凄い嬉しそうだけどさ。俺のネクタイ結ぶの、そんなに嬉しいわけ?」

「ご主人様のネクタイを結べるのはメイドとしては幸せな事ですから」

「へえ…。“メイドとして”…ね」

「昔、私の母が言ってたんです。ネクタイを結ぶ時にはそこに『自分の想いを込めないと』って」

「そうなんだ。で?咲月は俺のネクタイ結びながら何考えてたの?」

「『瑞稀様がお元気でお仕事を全うされて来ます様に』と…」

「それだけ?」


すり寄せられる鼻先がくすぐたい。その先の、穏やかな表情の瑞稀様に鼓動が心地よく加速する。


「ちゃんと教えてよ。」

「お、『お帰りをお待ちしております』と…」

「メイドとして?」

そう聞かれて少し答えを躊躇った。

だって…違うから。

瑞稀様がご不在の間、いつも想っている。『瑞稀様、早く帰って来ないかな』と。


それは…紛れもなくメイドとしてではない感情。


震える腕を一生懸命あげ、背中に回して、瑞稀様を少し引き寄せた。


「…“私が”瑞稀様のお帰りを心待ちにしているんです、いつも。」


目の前でフッと笑う瑞稀様の吐息が唇にかかり、そこが熱を持つ。
その笑顔が、この上なく嬉しく思えた。


『覚悟』……か。


ご主人様を好きになるなんて、普通ならそんなのあり得ない出来事。
確かに、それなりの覚悟を持たなくては。

瑞稀様の背中に回していた手を一度キュッとむすんだ。


…やっぱり、だからこそ智樹さんの事はちゃんと話をしたい。そして、瑞稀様のお考えを知りたい。

心の中で大きく深呼吸をしてから、意を決して口を開いた。


「あの…昨日は泣いてしまい、大変失礼を…」

「…それは、さっき聞いた。」

「も、申し訳ありません…。
実は、 瑞稀様にお話をしたい事がありまして。この前のお休みで出かけた先で会っていた人についてなのですが…」

「……。」


突然、回されてる腕が身体をギュウッと苦しい位に締めつけ、瑞稀様の頭が私の首筋に埋まった。


「…咲月。」

「は、はい…。」

「さっきも言ったけど、明日は出掛けるのは10時だから。」

「はい。」

「まあ、そんなに早いわけでもないしね。」

「…はい。」

「抱いていい?」

「はい…ってえっ?!」


咄嗟に身体を離そうと顔を上げたら、腰を腕で捉え直された。


「問題ないでしょ?別に。」


問題…ない…?
あり過ぎます…よね?

な、何で?
どうしてそんなに急展開……


瑞稀様のお考えに、事の事態に、ついていけなくて身体を捕らえられたまま、瞬きするしかない私をよそに、瑞稀様は目を細め不服顔を見せる。


「大体、こっちはあなたのせいで随分と我慢させられてんだよ。」

「わ、私…に何か不手際が…」

「そう。ものすごく不手際。 とにかく、さっきも言ったけど覚悟しろ。」


ま、待ってください…それは『覚悟』の意味が違うのでは。
それに、そういうことは出来れば時間をかけてゆっくりとが望ましいと思うのですが…。


「あ、あの…ですね。お、お時間をいただけませんか?」
「じゃあ、一分。」


ま、また?!


「60…59…」


カウントが始まり、身体がフワリと持ち上げられる。


ま、待って?
メイドが主人に抱きかかえられ…ってその前に私、お、重い…!


「み、瑞稀様!お辞めください!腰を痛めます!大事なお身体が…」
「…そこ?さすがは咲月。じゃあ、次の時は圭介呼ぶか。」


そ、それはもっとダメ!


「ダイエットします!明日から!」


瑞稀様が快活に笑い、そのまま ベッドに私をそっと沈めた。
煌めきを集めたその瞳が上から真っすぐに向けられて、瑞稀様の指先が私の頬を優しく滑る。


「…時間切れ。」


穏やかな低めの声色をきっかけに、瑞稀様は妖艶な雰囲気を纏われて、それに瞬時に私は捕らわれた。


そんな私を見て、満足げに微笑む瑞稀様の顔が近づく。その先で、 さっきよりも深くて甘い口づけが降って来た。





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