にじいろの向こう側



私の噎せが収まるのを待って、奥様がまた口を開いた。


「私達、瑞稀がニューヨークやロンドンに居る時はたまに会うのよ。
まあ…仕事の関係で夫が会うのに、私も夕飯だけ同行するような感じですけどね。」


そうなんだ…だから、今朝は『久しぶりの再会』って感じじゃなかったのかな。


「最近、瑞稀の雰囲気が変わった気がしていたの。」


一口紅茶を口に含んだ奥様は、静かにお皿にカップを戻すとその水面に目線を落とした。


「それがまさか、“恋愛”だとは分からなかったけれどね。」

「あ、あの…その事につきましては…」

「いいのよ。
若いうちは色々な事を経験した方がいいと思うし。恋愛する事は悪い事では無いと思うもの。
だから、私は、お付き合いしている事を反対はしません。」


相変わらずの柔らかい笑顔。

けれど…それがかえって話の流れが良い方向ではないと予感させる。


「けれどね、鳥屋尾さん。
彼は、谷村グループの会長の息子であり、そのグループの中でも中枢にあたる会社を背負ってる身なの。分かりますか?」

「…はい。」

「そう。だったら話が早いわね。
鳥屋尾さん、あなたには『覚悟』を持っていて欲しいの。」

「覚…悟…。」

「いざと言う時は“あなたから、瑞稀と離れる『覚悟』”です。」


心に棘が刺さった様な痛さを感じて息苦しさが鼓動を早くする。


「主人は、いずれ瑞稀には『谷村家の跡取り』としてふさわしい嫁を迎えるつもりでいるわ。
けれど、もし、その時点で、今と同じ程、あなたに瑞稀が夢中ならば、あなたから縁を切って欲しいの。」

「夢中…かどうかは…。」

「あら、謙遜する事は無いわ。
自分の不在中に両親に会ってしまうあなたを心配して、わざわざニューヨークから飛んで来てしまうんだから相当よ。」


奥様の言葉の裏に、一つの答えが自ずと浮かび上がり、思わず視線をうつむかせ、震える身体をギュッと太腿の上で拳を作った。


「…申し訳ないけれど、今のうちに言っておきます。あなたも心の整理をする時間が必要でしょうから。」


出来れば…続きを聞きたくない。


そう思ったけれど、そんな術は無くて。そのまま、柔らかい奥様の声が耳へと入って来る。


「あなたは、『谷村瑞稀の妻』として相応しくありません。」


辛辣にのしかかるその言葉が、全ての言葉を失わせるには充分だった。


「今の世の中『学歴は関係ない』『家柄は関係ない』そう言われているけど、そんなのキレイ事です。
まだまだ社会一般では、学歴や家柄に目をやる人は多いの。
特に大きな会社やグループのトップに立つ者はそう言う所を見られがちです。
まして、奥さんが『メイドでした』なんて事はイメージ的にあってはならないと。
メイドと言う仕事を差別するつもりはありません。
実際、坂本さんは素晴らしい人だと私自身、信頼も信用もしてますし、尊敬もしてます。
けれど、それは私一個人であって、大多数は『メイドとご主人様が』と色眼鏡で見るでしょう。
それだけでも、谷村家の品位を落としかねません。」


奥様はそこまで話をして紅茶をまた口に含む。その後、私に柔らかく微笑んだ。


「…けれどね?『覚悟』さえ持っていて貰えるならば、寧ろ今は瑞稀の側に居て、支えてあげて欲しいって思うわ。」


一瞬、目の前が歪んで真っ暗になった。


何…を…。


「その、マフラーとシュシュ、瑞稀からのプレゼントでしょう?
あなたと今日買い物をして分かったわ。
あなたには、そう言うものを選ぶ知識も見る目も身に付いていないもの。」


動悸が早くて息がうまく息が出来ない。


「瑞稀にとってあなたは夢中になるに値する存在みたいですから。それを失っては、彼も辛いのではないかと思います。
『今の谷村瑞稀』を保つのに必要なのかと。」


私は…ただの『手段』ってこと?

瑞稀様が『谷村瑞稀』としてその職務を全うする為の?


「でも、今のあなたでは、『谷村瑞稀の恋人』としても相応しいとは到底いえませんよ?
瑞稀がスケジュールを調整してまでニューヨークから帰って来てしまう程、あなたを心配してるのがその証拠です。
『谷村瑞稀の恋人』ならば、両親が帰って来た位で本人を仕事から切り離す事などあってはなりません。
その位、離れていても信頼し合えるようでないと。
そして…もう少し自分の外見にも気を付けないと。」

「……。」

「まあ、そこら辺は努力すれば何とかなる部分ですから。」


奥様は鞄を手にして、一足先に立ち上がる。


「…そろそろ行きましょうか。」


その後ろ姿に、瑞稀様の瞳が揺れたリビングでのやり取りが何故か頭を鮮明に過った。





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