にじいろの向こう側




夕飯後


「今日は友人宅へ出掛けるので」と外出された旦那様と奥様を見送ってから夜の仕度の為に訪れた瑞稀様のお部屋。


「失礼いたします…。」


入って行ったら黒縁メガネをかけた瑞稀様が、パソコン画面から一度顔をあげ、微笑むと、また目を画面に落とす。

キーは…叩き続けたまま。


「ちょっと待ってて。もうすぐひと段落だから。」


…お仕事、本当にお忙しいんだ…よね。



『谷村瑞稀の恋人としても相応しくありません』


私…『お忙しいのに私の為に帰って来てくれた』と、ただ嬉しくて…

それだけしか…。


瑞稀様がどう言うお立場の人間か、それをきちんと考えていれば、そんな風には思わなかったはずなのに。


「…どした?」


俯いて立ち尽くしてたら、キーボードを叩く音をそのままに、私に話かける瑞稀様の姿に、キュッと思わず唇を噛み締めた。


『努力すれば何とかなる所ですよ』


…これ以上足を引っ張ってはダメだ。


「…いえ。奥様との買い物がとても楽しかったものですから。」


私の言葉に、キーボードを叩く音が止まった。


「…そっか。」


かけていたメガネを外して、「ん~っ」と伸びをした瑞稀様が「おいで」と手招きをする。

恐る恐る、お側へと行ってみたら


「おりゃっ!」
「きゃあっ」


腕をグイッと引っ張られて、瑞稀様の膝の上へと座らされた。


そのまま背中から包み込まれる。


後ろのファスナーが少し降ろされて、項に唇が触れた。


「み、瑞稀様…。」
「何か言われた?あの人に」


…『あの人』。



返事を一瞬戸惑ったら瑞稀様が「咲月?」と肩に顎を乗っけて覗き込んだ。


「い、いえ…奥様はずっと優しくしてくださいました。」
「そっ?」


スルリと肩から袖を下ろされてだらしなく垂れ下がるメイド服。


「ねえ…一緒に風呂入ろ。」
「っ…」


「ダメ?」って耳元に息を吹き掛けられたらそれに身体がゾクリと反応する。

途端


『瑞稀はあなたに夢中だから』


奥様の言葉が脳裏をまた過って、目頭が熱くなった。


「…瑞稀様。」
「ん~?」
「好きです。」
「…うん。」


ふふって笑い声と一緒にまた背中へと優しいキスが降って来て、余計に視界がぼやける。



…あの時奥様の言った事は全て最もだって思う。



瑞稀様と私では住む世界が違うから。きっとそこに広がる世界は私なんかじゃ入り込めない所なんだって。


けれど…瑞稀様が好きなんです、私。


いつか必ず訪れる『別れ』が先にあるとしても。

そして


『今の谷村瑞稀には必要ですから』


自分が『谷村瑞稀を保つため』の“手段“だったとしても。


思わず鼻を啜ったら



「…咲月?」


心配そうな声色が耳をくすぐってギュウッて腕に力が入った。


「やっぱり何か言われたんじゃないの?あの人に…」

「ち、違います…。緊張がほぐれて、つい。」


私の答えに、瑞稀様が少し溜息をつく。


「何言われたか知んないけどね?」
「…何も言われてません。」
「あ〜うん。まあ、じゃあ、言われてないにしてもね?」

頰同士がふれあい、瑞稀様の優しい声が、直接身体へと浸透してくる感覚が心地良さを生み出す。


「咲月は俺のでしょ?」
「…はい。」


私の返事にクッと少し笑う。


「だったらね?二人の事は俺と咲月が決めることで、他の誰かが決める事じゃない。そうでしょ?」


…そうですね、瑞稀様。
決めるのは瑞稀様…そして私。


だから…少しだけ私に時間を下さい。
“覚悟”を持てるだけの時間を…。


左頬を優しく押されて振り向いたと同時に覆われる唇。そのまま深いキスへと変化し、何度も、何度も重なった。


このまま、瑞稀様に溶け込んでしまえたらどんなに幸せなのだろう…


そんな現実逃避に幸せを感じ、また目頭が熱くなったけれど、


「咲月…。」


切ない程に名前を囁かれ、素肌をイタズラに這う瑞稀様の指先の感触に


”瑞稀様が、好き。”


そんなまっさらな思考以外何も無くなった。


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