にじいろの向こう側




瑞稀様がニューヨークに戻られた次の日の朝、お洗濯をすべく、外へと周り出た。


…旦那様、何となく機嫌が悪かった。
と言うより、私にあまり接してくれなくなったな…。


逆に奥様は至って普通で。
寧ろ、そんな旦那様をフォローするかの様に、私に沢山の用事を申し付けて下さった。
きっと、お屋敷の中の雰囲気を悪くしない様にとの奥様の気遣いなんだろうと思う。


『あなたは、メイドとしては、坂本さんが褒めるだけの事はあって、優秀なようですし、末永くこの谷村家で働いて欲しいと思っています。』


今日の朝のお仕度の時、そう言って微笑んで下さった奥様。
その話だけでも、奥様が私に話した事が『息子の恋人である私を嫌う』とか、そんな感情論のレベルではないと良くわかる。


谷村グループ会長の妻として、そのグループの中枢会社を背負う谷村瑞稀の母として、それを全うしてるだけ。



少しだけ見上げた快晴の空。そこに流れる柔らかい雲に乗せてふと庭先で会った時の奥様を思い出した。


『そう…瑞稀が。』


あの時、瑞稀様のお話をした瞬間に見せた表情は寂しげではあったけど、この上なく柔らかかった。


…本当の奥様はどんな方なんだろう。
そして、本当は何をお思いになられているのだろう。


瑞稀様…奥様の事、『あの人』って呼んでいたな…。


違う雲がまたゆっくりと形を変えながら移動していく。そこにまたあの寂しげに揺れた奥様の瞳が過った。


…リビングでお会いになった時の3人に流れた空気への違和感。それは私の固定観念にある『家族』とは少し違う気がした。
智樹さんと前のご主人様は…確かに、『息子』という事での素っ気なさはあるのかもしれないけれど、それでも、二人で話している時は照れくささの中の距離感が凄く近くて“父と息子”なんだなと微笑ましかった。


瑞稀様は、何と言うか…『外のお顔』と言う感じがして。

私がこんな事考えるのはおこがましいかもしれないけれど、瑞稀様に触れて瑞稀様の優しさとか、温かさとかを知れた今、お二人に対する『瑞稀様』が『瑞稀様』とはちょっと異なる気がしてならない。


思わず目線を箒の先に向けて、フウッと俯いて溜息つく。


「溜息ついては、幸せが逃げますよ。」


少し落ち着いたしわがれ声が聞こえて来た。


あ…伊東さん。


「おはようございます。」と会釈をすると、微笑みと同時に白い口髭がふわりとその息で動いた。


「まあ、まあ。同じ谷村家で働く身ですから、堅苦しい挨拶は抜きで。」


軽く片手をあげ、私の前まで歩いてくる。


「昨日は…だいぶ奥様にやり込められましたかね。」


目を見開いた私に、ニッコリと目尻に皺を寄せると眩しげに目を細めて空を見上げた。


「私はここに勤めてかれこれ…50年位になりますかな。」
「ご、50年ですか!?」
「いや?40年だったかな?」
「ど、どちらにしても…凄い事です。」
「いやいや。性に合ってたんでしょうな。谷村家で執事として働く事が。
先代も、今のご主人様の様に立派で面白い方でした。」


立派は分かるけど…“面白い”。


「先代は真人様と瑞稀様を掛け合わせた様な方で。
あ、谷村グループを創り上げた方です。今は分かれた、『風木家』が大元は谷村家にあたりましてね。いとこ同士で仲が良くて、一緒に創業したそうです。」

「そうなんですね…。」

「知らなかったですか?」

「瑞稀様のおじいさまがグループの元となる中枢会社を創業されたと言う所までは存じ上げておりましたが…。」

「…お勉強なさったんですね。」


優しく微笑まれて、少し恥ずかしくなった。


「勉強…と言う程では。」


ここでお仕事出来る事になって、少しは知っておかなくてはと多少調べただけだから…。


「いや、メイドとして、谷村家の事を知ろうとするのは良い事だと思いますぞ?さすがは坂本さんが見込んでるだけの事はありますね!」


褒められたことが恥ずかしく思えて、頰が熱くなる。そんな私をはっはっはっと伊東さんが笑い、その声が辺りに少し響いて、雀の鳴き声と重なった。



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