にじいろの向こう側
.
「失礼致します、奥様」
伊東さんに連れられて行ったリビングには、ハーブティーを召し上がりながら本を読んでいる奥様がソファに腰を下ろしていた。
「…あら。どうかなさったの?」
伊東さんの後ろに私を見つけると、奥様はニコッと微笑みかけてくださる。
それだけで緊張で身体が震えた。
どうしよう…言えるかな、私。
「さあ、鳥屋尾さん。」
躊躇したら、優しく背中に触れる伊東さんの手のひら。
そして、微笑んでただ、コクリと頷く。
そ、そうだよね、ここで頑張らないと…。
背中に感じる手のひらの温もりに少しの安心を貰えて、勇気を出して一歩進み出ることができた。
この前の圭介さんもだったけれど。
執事さんが後ろにいる事で、こんなに安心出来るものなんだな…。
やっぱり執事さんて凄い。
後ろにいてくれる伊東さんに感謝をしながら大きく息を吐いた。
「奥様にお願いがあって参りました。」
奥様が私の言葉を受けてハーブティーを一口飲むと、それを静かにお皿の上に戻した
「…実はバレンタインに瑞稀様にチーズケーキをプレゼントしようと思いまして。
波田さんにお願いして教わっています。
その…奥様の昔作られてたチーズケーキがどうしても作りたくて。」
奥様の顔から笑顔が消える。その表情に鼓動がより早くなった。
「ですが、何度焼いてみても、奥様のお作りになっていたものとは違うと、波田さんが…。
厚かましいお願いであるとは思うのですが…どうか、一度だけでいいので、作って下さいませんでしょうか。」
「お願いします」と頭を下げた後に訪れた、沈黙。その後奥様はフッと短く息を吐き出してから口を開いた。
「…鳥屋尾さん?」
「は、はい…」
「それは、メイドとしてのお願いなのかしら。それとも…恋人として?」
真っすぐ私を見つめる琥珀色の瞳が何を考えているのか分からなくて、一瞬足がすくむ。
どう…答えれば…。
「コホン」と咳払いが後ろから聞こえて一瞬振り返ったら、伊東さんが「これは失礼」と優しく微笑んだ。
『瑞稀様の為に何かをするとは素晴らしい事です』
先ほど言われた伊東さんの言葉を思い出す。
…そうだよ。
私は、瑞稀様にちゃんと美味しいって思って欲しくて、こうしてお願いに来たんだもん。
今できることは、自分の気持ちを素直に、誠実に、はぐらかす事なく話す事だ。
お腹に力を入れて、少し息を吐き出した。
…出会った頃。
瑞稀様はどこか寂しそうで、冷めていて私を見つめるあの琥珀色の瞳が不安げに揺れていた。
いつからか、その表情は無くなり、柔らかい表情を向けてくれる様になって。
『咲月、ネクタイありがとう』
瑞稀様の優しい笑顔が鮮明に脳裏に浮かんだ。
「…もちろん、バレンタインなので、『恋人として』が入り口ではありました。ですが…波田さんにお話を聞いた時点から、少し目的が変わりました。
私は、瑞稀様が好きなんです。
男性としてはもちろんですが、瑞稀様自身に尊敬し、好意を抱いております。
それは、メイドとしても、恋人としても…瑞稀様を知る、一人の人間としても、です。
だから今は、瑞稀様が喜んで下さるなら、どうしても知りたいです。」
「よろしくお願いします」ともう一度頭を下げ直したら
「…」
再び訪れた沈黙の後、奥様は今度は少し深い溜息をついた。
「鳥屋尾さん?」
「は、はい…。」
「息子をそんな風に想ってくれて、ありがとう。
ですが、残念だけど、チーズケーキのレシピを教えた所で、あなたの役には立てないわ。
瑞稀はね。あのチーズケーキは食べないのよ。昔から、真人しかあまり口をつけてくれなかったから。食べても少しだけ。」
奥様の琥珀色の瞳が悲しそうに瞳がまた揺れる。
「失礼ですが奥様。それは少し、誤解がありまして。」
伊東さんが私の横に立って話し始めた。
.
「昔、奥様がチーズケーキを作られて、冷蔵庫から出したら1/4無くなっていたのを覚えておいでですか?」
「…ええ。真人が我慢出来ずに食べたと本人が言っていましたね。」
「あれは、実は瑞稀様が食べたものでした。瑞稀様を庇って真人様が自分が食べた事にして欲しいとおっしゃいまして…。」
「…えっ?」
驚きで奥様の目が大きく見開いた。
…こんなに表情を変えた奥様初めて見たかも。
「また、伊東は…。あまり、冗談を言わないで頂戴?」
「信じては頂けませんか。」
「…そうね。信じ難いわ。あの後も瑞稀は殆ど…というか私の作るお菓子は全く食べなかったし。」
「それは、幼心に兄に罪を着せてしまった負い目を抱かれたのかと。」
「…」
「…奥様。私の話を今、信じて頂けなくても結構です。
ですが、折角の機会でございます。ご自身で真実をお確かめになられるのは有用かと。
それから…私と波田に罪を流すチャンスを頂けませんか?」
「罪…?」
「今日この日まで、奥様を欺き続けた罪。
そして、『内緒だよ』と言う真人様との約束を今日、反古にしてしまった罪。
もし、瑞稀様が奥様の作られたチーズケーキを『美味しい』と召し上がったあかつきには、我々のそれらの罪を流して頂けないか、と。」
丁寧に会釈をした伊東さんをジッと見つめる奥様の瞳が綺麗に揺れる。それを隠す様に、一度伏せた瞼。同時にまた深い溜息を吐き出した。
「そこまで伊東に言われてはやるしか無いわね…。
鳥屋尾さん?」
「は、はい!」
「何度焼いても…って事は、ここ数日、沢山チーズケーキを焼いたの?」
「…はい。」
「そう…では、基本的な作り方は頭に入ってるわね。」
「は、はい…大体は。」
「分かりました。では、あなたは私のお手伝いをしてください」
「え…宜しいのですか?」
目を見開いたらその表情がふわりといつもの柔らかい笑みに変わった。
「…今、メモを書きますから。明日中に材料を揃えておきなさい?」
「は、はい…!ありがとうございます。」
「…伊東と波田さんをずっと後ろめたい気持ちにさせてしまっていたお詫びです。」
身体を二つに折り曲げて頭を下げる私に話す奥様の声色は、表情同様、どこか柔らかく優しかった。
.
「失礼致します、奥様」
伊東さんに連れられて行ったリビングには、ハーブティーを召し上がりながら本を読んでいる奥様がソファに腰を下ろしていた。
「…あら。どうかなさったの?」
伊東さんの後ろに私を見つけると、奥様はニコッと微笑みかけてくださる。
それだけで緊張で身体が震えた。
どうしよう…言えるかな、私。
「さあ、鳥屋尾さん。」
躊躇したら、優しく背中に触れる伊東さんの手のひら。
そして、微笑んでただ、コクリと頷く。
そ、そうだよね、ここで頑張らないと…。
背中に感じる手のひらの温もりに少しの安心を貰えて、勇気を出して一歩進み出ることができた。
この前の圭介さんもだったけれど。
執事さんが後ろにいる事で、こんなに安心出来るものなんだな…。
やっぱり執事さんて凄い。
後ろにいてくれる伊東さんに感謝をしながら大きく息を吐いた。
「奥様にお願いがあって参りました。」
奥様が私の言葉を受けてハーブティーを一口飲むと、それを静かにお皿の上に戻した
「…実はバレンタインに瑞稀様にチーズケーキをプレゼントしようと思いまして。
波田さんにお願いして教わっています。
その…奥様の昔作られてたチーズケーキがどうしても作りたくて。」
奥様の顔から笑顔が消える。その表情に鼓動がより早くなった。
「ですが、何度焼いてみても、奥様のお作りになっていたものとは違うと、波田さんが…。
厚かましいお願いであるとは思うのですが…どうか、一度だけでいいので、作って下さいませんでしょうか。」
「お願いします」と頭を下げた後に訪れた、沈黙。その後奥様はフッと短く息を吐き出してから口を開いた。
「…鳥屋尾さん?」
「は、はい…」
「それは、メイドとしてのお願いなのかしら。それとも…恋人として?」
真っすぐ私を見つめる琥珀色の瞳が何を考えているのか分からなくて、一瞬足がすくむ。
どう…答えれば…。
「コホン」と咳払いが後ろから聞こえて一瞬振り返ったら、伊東さんが「これは失礼」と優しく微笑んだ。
『瑞稀様の為に何かをするとは素晴らしい事です』
先ほど言われた伊東さんの言葉を思い出す。
…そうだよ。
私は、瑞稀様にちゃんと美味しいって思って欲しくて、こうしてお願いに来たんだもん。
今できることは、自分の気持ちを素直に、誠実に、はぐらかす事なく話す事だ。
お腹に力を入れて、少し息を吐き出した。
…出会った頃。
瑞稀様はどこか寂しそうで、冷めていて私を見つめるあの琥珀色の瞳が不安げに揺れていた。
いつからか、その表情は無くなり、柔らかい表情を向けてくれる様になって。
『咲月、ネクタイありがとう』
瑞稀様の優しい笑顔が鮮明に脳裏に浮かんだ。
「…もちろん、バレンタインなので、『恋人として』が入り口ではありました。ですが…波田さんにお話を聞いた時点から、少し目的が変わりました。
私は、瑞稀様が好きなんです。
男性としてはもちろんですが、瑞稀様自身に尊敬し、好意を抱いております。
それは、メイドとしても、恋人としても…瑞稀様を知る、一人の人間としても、です。
だから今は、瑞稀様が喜んで下さるなら、どうしても知りたいです。」
「よろしくお願いします」ともう一度頭を下げ直したら
「…」
再び訪れた沈黙の後、奥様は今度は少し深い溜息をついた。
「鳥屋尾さん?」
「は、はい…。」
「息子をそんな風に想ってくれて、ありがとう。
ですが、残念だけど、チーズケーキのレシピを教えた所で、あなたの役には立てないわ。
瑞稀はね。あのチーズケーキは食べないのよ。昔から、真人しかあまり口をつけてくれなかったから。食べても少しだけ。」
奥様の琥珀色の瞳が悲しそうに瞳がまた揺れる。
「失礼ですが奥様。それは少し、誤解がありまして。」
伊東さんが私の横に立って話し始めた。
.
「昔、奥様がチーズケーキを作られて、冷蔵庫から出したら1/4無くなっていたのを覚えておいでですか?」
「…ええ。真人が我慢出来ずに食べたと本人が言っていましたね。」
「あれは、実は瑞稀様が食べたものでした。瑞稀様を庇って真人様が自分が食べた事にして欲しいとおっしゃいまして…。」
「…えっ?」
驚きで奥様の目が大きく見開いた。
…こんなに表情を変えた奥様初めて見たかも。
「また、伊東は…。あまり、冗談を言わないで頂戴?」
「信じては頂けませんか。」
「…そうね。信じ難いわ。あの後も瑞稀は殆ど…というか私の作るお菓子は全く食べなかったし。」
「それは、幼心に兄に罪を着せてしまった負い目を抱かれたのかと。」
「…」
「…奥様。私の話を今、信じて頂けなくても結構です。
ですが、折角の機会でございます。ご自身で真実をお確かめになられるのは有用かと。
それから…私と波田に罪を流すチャンスを頂けませんか?」
「罪…?」
「今日この日まで、奥様を欺き続けた罪。
そして、『内緒だよ』と言う真人様との約束を今日、反古にしてしまった罪。
もし、瑞稀様が奥様の作られたチーズケーキを『美味しい』と召し上がったあかつきには、我々のそれらの罪を流して頂けないか、と。」
丁寧に会釈をした伊東さんをジッと見つめる奥様の瞳が綺麗に揺れる。それを隠す様に、一度伏せた瞼。同時にまた深い溜息を吐き出した。
「そこまで伊東に言われてはやるしか無いわね…。
鳥屋尾さん?」
「は、はい!」
「何度焼いても…って事は、ここ数日、沢山チーズケーキを焼いたの?」
「…はい。」
「そう…では、基本的な作り方は頭に入ってるわね。」
「は、はい…大体は。」
「分かりました。では、あなたは私のお手伝いをしてください」
「え…宜しいのですか?」
目を見開いたらその表情がふわりといつもの柔らかい笑みに変わった。
「…今、メモを書きますから。明日中に材料を揃えておきなさい?」
「は、はい…!ありがとうございます。」
「…伊東と波田さんをずっと後ろめたい気持ちにさせてしまっていたお詫びです。」
身体を二つに折り曲げて頭を下げる私に話す奥様の声色は、表情同様、どこか柔らかく優しかった。
.