にじいろの向こう側






「…さて、始めましょうか。」



夜、全ての仕事を終えた頃、厨房に現れた奥様




「…やりにくいですね、さすがにこれは。」


全員集合している使用人一同に苦笑い。


「そうですか。では、鳥屋尾さん以外は退散致しましょう。」


伊東さんがニッコリ笑うと、不服そうな圭介さんや涼太さんを追い出す様に背中を押す。


「奥様、咲月ちゃんは道具の場所も全部分かっていますから、聞いて貰えれば大丈夫です!」


は、波田さんまで出て行ってしまうんだ…。
良いのかな、レシピ知れるチャンスなのに。


「咲月ちゃん、頑張ってね。覚えたら、後で教えてくれればいいから。」


波田さんはそう言って笑って出て行く。

…私を優先にしてくださった。ありがとうございます、波田さん。


「…では、鳥屋尾さん、ボールを二つと計りを」


皆が出ていくと、奥様が早速指示を出した。


…頑張ろう。
多分、奥様に教えて頂けるのは最初で最後な気がするから。
ちゃんと覚えなくちゃ。


「ボールと計り、お持ちしました。」
「ありがとう、では、クリームチーズを…。」


緊張しながらも奥様とチーズケーキを作る事一時間程


「…後はこれをオーブンで湯せん焼きするの。
焼き上がったらあら熱を取って冷蔵庫で冷やせば完成よ。」


オーブンへと生地を入れる所までが終了した。



焼き上がりを待つため、腰を下ろした奥様へ紅茶を入れて差し出す。
それに美味しそうに口をつけた奥様は一息ついてから、周囲を見渡した。


「懐かしいわ…昔はお菓子作りをする度に、オーブンの中のケーキを待ってここでお茶を飲んでたわ。」

「昔からお得意だったんですね、お菓子作りが。」

「…あなたで言う所の『入り口』はただお菓子作りが好きってだけだったけどね。」


テーブルを挟んで立って話を聞いていた私に微笑むと「あなたもお茶を一緒に飲みなさい」と座る様、促してくれる。


「…結婚する前はね、ただお菓子を作る事が好きだったのよ。
けれど、『谷村家の嫁』として、それだけではいけなくなってね。
『好き』ならば『プロ顔負け』にならないと、公衆の面前で『好き』とは言えませんから。
ですが、趣味が無いのは『谷村家の嫁』としてはもっと失格です。『ご趣味は』と聞かれたら、答えないといけません。
だから、シェフにつきっきりでお菓子作りを学んだわ。それこそ、今のあなたの様に、レシピが全て頭に入る位。」


…チーズケーキだけでもあれだけ苦労したのに。
きっと凄く大変だっただろうな…。


「トップに立つものの『妻』とはそう言うものです。
夫を支え、そして、彼にとって、私が横に居る事で、世間的に『プラスα』がつく様に務めなければ。」

「……。」


思わず俯いてグッと紅茶のカップを両手で抑えた。


「…ですがね?鳥屋尾さん?」


不意に呼ばれて、顔を上げると、瑞稀様と同じ琥珀色の瞳に私が映る。
奥様の表情は、柔らかかった。


「あなたのおかげで、今日は久しぶりにそう言う事を全く考えないで出来たわ。
そうね…娘が居たら、こんな風に楽しくケーキ作りをしてたのかもしれないわね。」


奥様の言葉に目を見開いたけれど、同時に鼻の奥がツンとして、視界が少しぼやけた。


「そ、そんな私など…。」


クスリと笑う奥様。


「もちろん、私の娘だったら、もっと筋が良かったって思うわよ?」

「そうですね…。」

「冗談よ。あなた、本当にしっかりレシピが頭に入っていたもの。
…瑞稀は幸せ者ですね。こんな風に一生懸命に何かをしてくれる女性が傍らに居て。」


信じられないその言葉にポタン…と思わず涙がこぼれ落ちる。


「あ、あの…申し訳ございません…。」


ポケットのハンカチを取ろうとしたけれど、手が震えて上手くポケットから取り出せない。


「私も夫の好きなガトーショコラを焼きたくなったわ」


目の間に差し出された綺麗なハンカチ。


「今日は本当にありがとう。久しぶりにとても楽しかったわ。」


それを震える手で受け取った。




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