にじいろの向こう側






『奥様からお下がりを頂いたそうです。それから…奥様がずっと大事に保管されていた、洋菓子のレシピ本も…だそうです。』


圭介から受けた報告に思わず目を見開いた。


あの人が…『あの本』を手放したという事実に。


覚えている、あの人が大事にしていたレシピ本。


俺や真人が幼い頃、あの人が甘い匂いをさせて立つ厨房にはいつもあの本があった。そして真人が中身を読みたくて何度も手を伸ばしては注意されていた。


『これはダメよ?私の大切な宝物だから』と。


それを…咲月に。



『つきましては、鳥屋尾が瑞稀様にお食事のマナーを学びたいと…。
どうやら、奥様に頂いた装飾品を身につけて、瑞稀様と外食したいとの想いがあるそうで。』


…で、咲月的にはそう言う答えね。

本当に、凄いよ、咲月は。



圭介が入れたコーヒーを口に含んだら、苦味が爽やかに鼻から抜けて行った。




…恋人として紹介した日、咲月があの人に何か言われたのは確実で、けれど咲月が浮かない顔してたのはその日だけだった。


バレンタインの日に帰って来た時にはもう戻っていて…寧ろ、前より少しだけ表情が引き締まった気がした。




辛い想いさせてごめんって、ちゃんと咲月が疲れない様に気を付けなきゃって思っていたけれど、そんなの全部吹き飛ばす位の答えを返してくれる咲月。


『大切にしなよ』


ふと真人の言葉が脳裏を過った。


…そうだよな、真人。


大切にしないと。



なんて思ってはいるんだけどさ。やっぱり男の性は変えられない。
困り顔の咲月を引っ張って行って、風呂に連れ込んで一緒に入って。


二人して入浴。


そう言っちゃ何だけどうちの風呂、結構な広さだからさ。
逃げようと思えばいくらでも逃げれるんだけどね?


そこは、まあ…取っ捕まえて、無理矢理今、俺に乗っからせているわけだ。


目の前の赤く染まる頬と耳…そして首筋

それが嬉しくて耳たぶに唇をつける。その身体が反応してぴくりと揺れた。


「…皹、なくなったね。」


乳白色のお湯の中から咲月の手を取り出して指先に触れる。


「そうですね…瑞稀様が買って来て下さるハンドクリームのおかげです。」

「…季節柄じゃなくて?」

「一年中荒れている時は荒れていますので…」

「ふ~ん。」


そのまま指を絡めてまたお湯ん中に沈めたら、その身体をもう片方の腕でより包み込んで、少し俯いてる事で露になってる項に鼻をちょんと付けた。


ピクリとまた咲月の身体が揺れる。


「咲月、ゆでだこになりそうな程身体があったまってるね。そろそろあがる?」

「は、はい…出来ればそうさせて頂けると。」

「俺はまだここに居たいけど。」


回してる腕に力を込めると引寄せて、耳朶を少し甘噛み。


「っみ、瑞稀様…。」


俺を呼ぶ弱々しい声が少しだけ浴室内に響いた。


「…もうこうしてんのヤダ?」
「っ…」


お湯の中で手を動かし始めた俺の腕を制するように掴む咲月。
首筋に何度かキスを落としたらその力が少しずつ抜けていく。


…素直。


熱くなる身体に湯気が相俟ってふわりふわりと気持ちが高揚していく。


咲月…俺はさ。

咲月の存在と温もりをこうやって俺自身の全てで感じている今、この瞬間があるってことが、凄い贅沢な事だって思うんだよ。


…ありがとう。
そんな風に感じることが出来る瞬間をくれて。




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