愛することは呼吸みたいだ
「君は、全てを失ってもいいの」

彼はそう問いかけて、弱々しく笑った。
不安になって彼の手を握ったけれど、彼の手は力なく下ろされたままだった。

「あなたがいれば、私は何もいらない」

彼の目を見つめて口にした私の言葉は、本気でしかないのにどこか上滑りしている気がした。
私が失うものより、彼が失うものの方が大きい……そう分かっていたから。


「じゃあ、別れよう」


「じゃあ」って何。
そう頭を過ったけれど、本当は分かっている。

「俺は、全てを失うことはできない」

今度は私が押し黙る番だった。

焦りや憤りよりも、何と返せば彼を失わずにいられるかについて考えていた。
その一方で、納得している自分もいた。
ああそうだよそうだよね仕方ないよね、そう言ってしまえたら楽だ。

彼は呻きながら、鼻をさすった。

「君を好きだと思ったのは嘘じゃないけど」
「うん」
「ずっと一緒にいたいと心から思ってたけど」
「うん」
「でも冷静に考えて、何もかも捨てて君を選ぶことはできないと思った」
「うん」

「家族も友人も夢も何もかも捨てるって考えたらもう一緒にはいられない。君が本気だけど俺はそこまでじゃない。生半可な気持ちで惑わせてごめん」

「ううん」

どうして彼を責めようか。

嘘をつく時鼻を触る癖や焦った時に早口になってしまう癖が出ていることに、何かを期待してしまっている愚かな自分がいる。


「もし…何も問題がなかったら、私たちは一緒にいられたのかな」

鼻声になった私の手を彼は一瞬だけ握り返して、もう一方の手で引き剥がした。

「それは分からないよ、そんな状況になりようがないから」

いつだって曖昧な事を言わない彼が好きだった。
だから、ずっと憧れていた。
だから、彼の心が向いているのが分かった。
だから、愛されていた事は本当だと思えた。

だから、核心をつく話を避けていた。

問題がなくても、やっぱり別れていたかもなぁ。
そう思ったけれど、口にしなかった。
分からないものは分からないままでいい。

「大好きです」
「……ありがとう」

聞きたい答えは返ってこないと分かっていた。
それと同時に、あの頃は本当に愛していてくれたと知っていた。
もう一度だけ愛の言葉を聴きたいという願いは叶わないことも知っていた。


私は背伸びをして、固く閉じられた彼の唇にキスをした。
そして、彼に笑いかけて背を向けて駅に向かった。
彼は、追ってこなかった。

駅に着いた瞬間、寂しさがぐっと押し寄せてきて私はきびすを返して走り出した。

もう一度だけ会いたい、いや、もうずっとそばにいたい、二番目だって何だっていい、一生結ばれなくたっていい、そばにいたい。
どうか、どうか間に合ってほしい。
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