【現代異類婚姻譚】約束の花嫁 ~イケメン社長と千年の恋~
この日を、どんなに待ち焦がれたことか……!
アスファルトに落ちた一つの豆粒を拾ってその男は笑った。
百八十センチをゆうにこえる長身に、軽くウェーブした茶髪。
彫りの深い、きりりと引き締まった顔立ちの男はなぜか、泣いているのか笑っているのか、にわかには判別しがたい複雑な表情を浮かべていた。
迫った眉の下、切れ長の涼し気な目は大きな手の上にのせた一粒の豆を穴が開くほどじっと見詰めている。
――「あの日」から、何百年待ったことだろう……。それでも、想い続けた甲斐があった。
祈るように真剣な瞳で、男は目の前にあるマンションの窓を見つめた。
……あそこに恋焦がれた女がいる――こんなにも手が届くほど近くに。
そう思うと身体が小刻みに震えるほどの幸福を感じる。
愛しい女性を今度こそ、我がものに――。
激情を抑えるように胸に手を当ててから、男は黒のトレンチコートを翻し、闇に消えた。
※※※
吐く息も白い二月のはじめ。
指がかじかむ寒さの中、百合は自分のマンションに向かってただひたすらに足を動かしていた。
頭にあるのは「一刻も早く家について温かいお風呂に浸かりたい――」たったそれだけの、平凡で小さな望み。
今日はまだ月曜日。一週間は始まったばかりだけれど、心もカラダもぐったりと重い。
人事異動で百合が秘書を担当していた部長が転勤になり、新しい部長の下についてから四カ月あまり。
前任者と異なり出張が多い上、過密スケジュールの調整や英語が苦手な部長のためのメールの翻訳、会議通訳に資料作成……。
百合の負担は日々増えていくばかりで、まるで終わりのない迷路を息つく暇もなくやみくもに走り回っているような日々が続いている。
やっとのことでマンションに辿り着き、オートロックを解除して一息入れる。
郵便受けを見ると、不在通知が一通――。どうやら、宅配ボックスに実家からの荷物が届いているようだ。
ああ、今年も節分か……。
すぐにピンと来た。この時期、毎年必ず実家から百合のもとへ送られてくるモノがある。
箱を引き取ってエレベーターを呼び、三階にある自分の部屋まで何とか辿り着いた。
「っつかれたあ……ただいまぁ」
誰もいない部屋に向かってひとこと呟いてから、電気をつけてブーツを脱ぐ。
台所の机に箱を置いて、コートを脱ぐと、暖房を入れて風呂の用意に取りかかる。
湯をためている間に届いた箱を開封すると――やはりそこには今年も実家でとれた大豆豆が入っている。
今は都内で働いている如月百合の実家はS県にあり、父は銀行員をしているが祖父母の代までは農業で生計を立てていた。
一昨年に祖母が亡くなって、今はもう家の周りの小さな畑くらいしか残っていない。
今は細々と実家の家族分の野菜を育てている程度だけれど、如月家では代々、大豆だけは欠かさずに育てていた。
百合が子供心にも奇妙に思ったほど、如月家の節分への力の入れようは異様だった。
ひな祭りより、五月の節句より、もしかするとお盆やお正月より。
近隣に住む一族が総出で集まり、一緒に神社にご祈祷に行き、実家の敷地で豆まきをした後、めいめいの家に豆を持ち帰ってさらに豆まきをする……。
特に豆まきの大豆にはこだわりがあり、如月家の敷地で育て、前年の11月に収穫したものを使うしきたりになっている。
田舎ということもあって、節分に豆まきをする家庭はそれこそたくさんあったが、ここまで徹底しているのは百合の知る限り如月家ぐらいのものだった。
ゆっくりと風呂に浸かって冷えた身体を温めた後、百合は改めて小箱を前にして座った。
丁寧に包装された大豆豆を手のひらに取り出すと、一つ一つがふっくらとして艶をおびている。
『しっかり炒ってね、これ、こうして……』
節分にはいつも祖母のことを思い出す。
昔語りや童話の類を読み聞かせするのが上手い人だった。
節分の鬼の話は、幼い頃から繰り返し、繰り返し聞かされてきた。
『決して、芽がでないように……しっかり炒ってから豆まきをするんだよ』
故郷から離れて都会で暮らしていても、節分のことを思い出すと懐かしい祖母の声が聞こえてくる気がする。
ふと、時計を見るとすでに十一時を回っている。
「いけない……もう、こんな時間」
フライパンを出して袋の大豆をざらざらと中に入れる。
菜箸で豆を転がしながら、何度もあくびを噛み殺す。
「このくらいでいいかな?」
少々短い気もするけれど、明日もまた会社だと思うとそこまで時間はかけられない。
カチリと火を止めて、キッチンペーパーの上に豆を出して少し冷ましながら、百合はふと大豆が入っていた袋を捨てようと手に取った。
「あ、まだ一粒……」
袋の中に残った豆を見て百合はため息をついた。
……仕方ない、さすがに一粒くらいならいいでしょう。
キッチンペーパーの上の豆をいくつかつまんでワンルームの窓を開ける。
「寒っ……さむさむさむっ!」
窓を開けた途端、切り裂くような冷気が部屋に流れ込んでくる。
下に人がいないことを確認してから、急いで数粒の豆をつまむと窓の外に放ちながら、そっと呟く。
「鬼は、外……」
下は都会の道路なので撒く豆はほんの申し訳程度だ。
手のひらの豆がなくなるまで、二、三度繰り返してから急いで窓を閉める。
台所に戻るとテーブルの上の炒り豆を食べてから温めた牛乳を飲んだ。
「福は、内~」
口の中に豆を放り込む度にそう唱えながら、牛乳で少しずつ流し込む。
眠い目をこすりながら歯を磨いて、12時を過ぎた頃もそもそとベッドに潜り込むと、あっというまに眠気が襲ってきた。
せめて、夢くらいは……いい夢がみられますように!
そう念じながら百合は深い眠りに落ちていった。
アスファルトに落ちた一つの豆粒を拾ってその男は笑った。
百八十センチをゆうにこえる長身に、軽くウェーブした茶髪。
彫りの深い、きりりと引き締まった顔立ちの男はなぜか、泣いているのか笑っているのか、にわかには判別しがたい複雑な表情を浮かべていた。
迫った眉の下、切れ長の涼し気な目は大きな手の上にのせた一粒の豆を穴が開くほどじっと見詰めている。
――「あの日」から、何百年待ったことだろう……。それでも、想い続けた甲斐があった。
祈るように真剣な瞳で、男は目の前にあるマンションの窓を見つめた。
……あそこに恋焦がれた女がいる――こんなにも手が届くほど近くに。
そう思うと身体が小刻みに震えるほどの幸福を感じる。
愛しい女性を今度こそ、我がものに――。
激情を抑えるように胸に手を当ててから、男は黒のトレンチコートを翻し、闇に消えた。
※※※
吐く息も白い二月のはじめ。
指がかじかむ寒さの中、百合は自分のマンションに向かってただひたすらに足を動かしていた。
頭にあるのは「一刻も早く家について温かいお風呂に浸かりたい――」たったそれだけの、平凡で小さな望み。
今日はまだ月曜日。一週間は始まったばかりだけれど、心もカラダもぐったりと重い。
人事異動で百合が秘書を担当していた部長が転勤になり、新しい部長の下についてから四カ月あまり。
前任者と異なり出張が多い上、過密スケジュールの調整や英語が苦手な部長のためのメールの翻訳、会議通訳に資料作成……。
百合の負担は日々増えていくばかりで、まるで終わりのない迷路を息つく暇もなくやみくもに走り回っているような日々が続いている。
やっとのことでマンションに辿り着き、オートロックを解除して一息入れる。
郵便受けを見ると、不在通知が一通――。どうやら、宅配ボックスに実家からの荷物が届いているようだ。
ああ、今年も節分か……。
すぐにピンと来た。この時期、毎年必ず実家から百合のもとへ送られてくるモノがある。
箱を引き取ってエレベーターを呼び、三階にある自分の部屋まで何とか辿り着いた。
「っつかれたあ……ただいまぁ」
誰もいない部屋に向かってひとこと呟いてから、電気をつけてブーツを脱ぐ。
台所の机に箱を置いて、コートを脱ぐと、暖房を入れて風呂の用意に取りかかる。
湯をためている間に届いた箱を開封すると――やはりそこには今年も実家でとれた大豆豆が入っている。
今は都内で働いている如月百合の実家はS県にあり、父は銀行員をしているが祖父母の代までは農業で生計を立てていた。
一昨年に祖母が亡くなって、今はもう家の周りの小さな畑くらいしか残っていない。
今は細々と実家の家族分の野菜を育てている程度だけれど、如月家では代々、大豆だけは欠かさずに育てていた。
百合が子供心にも奇妙に思ったほど、如月家の節分への力の入れようは異様だった。
ひな祭りより、五月の節句より、もしかするとお盆やお正月より。
近隣に住む一族が総出で集まり、一緒に神社にご祈祷に行き、実家の敷地で豆まきをした後、めいめいの家に豆を持ち帰ってさらに豆まきをする……。
特に豆まきの大豆にはこだわりがあり、如月家の敷地で育て、前年の11月に収穫したものを使うしきたりになっている。
田舎ということもあって、節分に豆まきをする家庭はそれこそたくさんあったが、ここまで徹底しているのは百合の知る限り如月家ぐらいのものだった。
ゆっくりと風呂に浸かって冷えた身体を温めた後、百合は改めて小箱を前にして座った。
丁寧に包装された大豆豆を手のひらに取り出すと、一つ一つがふっくらとして艶をおびている。
『しっかり炒ってね、これ、こうして……』
節分にはいつも祖母のことを思い出す。
昔語りや童話の類を読み聞かせするのが上手い人だった。
節分の鬼の話は、幼い頃から繰り返し、繰り返し聞かされてきた。
『決して、芽がでないように……しっかり炒ってから豆まきをするんだよ』
故郷から離れて都会で暮らしていても、節分のことを思い出すと懐かしい祖母の声が聞こえてくる気がする。
ふと、時計を見るとすでに十一時を回っている。
「いけない……もう、こんな時間」
フライパンを出して袋の大豆をざらざらと中に入れる。
菜箸で豆を転がしながら、何度もあくびを噛み殺す。
「このくらいでいいかな?」
少々短い気もするけれど、明日もまた会社だと思うとそこまで時間はかけられない。
カチリと火を止めて、キッチンペーパーの上に豆を出して少し冷ましながら、百合はふと大豆が入っていた袋を捨てようと手に取った。
「あ、まだ一粒……」
袋の中に残った豆を見て百合はため息をついた。
……仕方ない、さすがに一粒くらいならいいでしょう。
キッチンペーパーの上の豆をいくつかつまんでワンルームの窓を開ける。
「寒っ……さむさむさむっ!」
窓を開けた途端、切り裂くような冷気が部屋に流れ込んでくる。
下に人がいないことを確認してから、急いで数粒の豆をつまむと窓の外に放ちながら、そっと呟く。
「鬼は、外……」
下は都会の道路なので撒く豆はほんの申し訳程度だ。
手のひらの豆がなくなるまで、二、三度繰り返してから急いで窓を閉める。
台所に戻るとテーブルの上の炒り豆を食べてから温めた牛乳を飲んだ。
「福は、内~」
口の中に豆を放り込む度にそう唱えながら、牛乳で少しずつ流し込む。
眠い目をこすりながら歯を磨いて、12時を過ぎた頃もそもそとベッドに潜り込むと、あっというまに眠気が襲ってきた。
せめて、夢くらいは……いい夢がみられますように!
そう念じながら百合は深い眠りに落ちていった。
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