マツモト先生のこと―離島で先生になりました―

ぬくぬく:お正月

 除夜の鐘を突いたのは初めてだった。大晦日、二十三時。マツモト先生と、その妹のメーちゃんと、三人でお寺に行った。

「マツモト家は仏教なんですか?」
「そげんわけじゃなかけど、表向きは割と自由」
「表向きって?」

 マツモト先生は口をつぐんで、メーちゃんは笑ってごまかした。どういうことなんだろ?何で隠すわけ? まさかまさかの、隠れキリシタン?

 お寺は、五年生のミキちゃんの家だ。マツモト先生のクラスってわけ。ミキちゃんは、小柄でやせてて、声がよく通る。発声がちゃんとしてるのもリズム感がいいのも、お経で鍛えられてるからって言ってた。

 お寺には、けっこうたくさんの人が集まっていた。子どもたちもいて、お堂で「だるまさんがころんだ」をしてた。だるまさんって、禅宗でしょ? 微妙に宗派が違うけど、そのへんはいいのかな?

 鐘突きは、力仕事だった。お寺のサイズに比較して、鐘がやたらと立派なんだ。鐘を突くための横棒も、すっごくぶっとい。太い紐をメーちゃんと二人でつかんで、「せーの」で揺さぶったんだけど、力不足。二回目に成功させた。

 マツモト先生は、もちろん一人で、一回で、みごとな音を響かせた。で、ちょっとニヤッとして、メーちゃんを小突いた。

「煩悩が邪魔したっちゃなかと?」
「か弱か乙女に何ば言うか!」

 メーちゃんの上段蹴りを、マツモト先生は華麗にかわしてみせた。仲いいよね、この兄妹。メーちゃんが一緒のときだと、マツモト先生、若い。っていうか、子どもっぽい。なんかちょっとうらやましい。

 鐘を突いた後は、お堂でお汁粉をいただいた。にゃはーってなるくらい甘くて、温かくて、幸せな気分になった。年越しの瞬間は、お寺からマツモト家へ向けて歩いてる最中だった。

「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」

 マツモト先生と、メーちゃんと、三人で言い合って、笑い合って、楽しかった。家に帰り着いて、マツモト先生のおかあさんには、畳で正座して挨拶した。その後、何度も失敗しながら、実家にあけおめメールを送った。

 ぬくぬくで快適なこたつに、メーちゃんと二人で逃げ込んだ。マツモト先生は、そんなに寒くないって言ってた。信じられない。

 マツモト家のおかあさんがつけてたNHKを、なんとなく、そのまま観てた。生放送でだらだらやってる番組が意外にもかなり面白くて、おかあさんはすぐに布団に入られたんだけど、あたしたち三人はテレビを観続けた。で、いつの間にか、その場で倒れて寝てしまってた。



「おい、起きろ。朝飯、できとるぞ」

 マツモト先生の声に起こされたのは、朝八時ごろだった。あたしとメーちゃんは、うめきながら起きた。寝入り端がこたつだったから、ものすごく喉が渇いてる。

「あ……おぁようござーます」

 回らない舌で挨拶したら、マツモト先生は、さっさと台所のほうへ行った。後ろ姿は、新年でもジャージだ。まあ、あたしも、着の身着のまままで寝っ転がってたわけだけど。

 というか、くつろぎすぎでした。今さら気付いて、恥ずかしくなった。まるで自分の家みたいに、のんびりマイペースな年越しをしてしまった。

 起き上がってみたら、こたつが解体されてるのがわかった。テーブル部分が脇にどけてある。あたしとメーちゃんは、こたつ布団と毛布をシェアして寝ていた。

「これ、もしかして、マツモト先生がやってくれた?」
「ま、兄貴やろね」
「寝顔、見られた……」

 あたしが顔を覆ったら、メーちゃんは、けらけら笑った。

「兄貴の扱い、難しかろ? リズムが独特やけん」
「うん、知ってる」
「上手に付き合ってね」
「コツ教えてよー」
「ダメ、教えん」
「けち」

 あたしたちは、くふふっと笑い合った。こんな小さな島で、年が近くて気の合う友達ができるって、たぶん奇跡的。

 朝ごはんは、いきなり、お刺身だった。実はカルチャーショックなんだよね、お刺身。

 実家暮らしのころの認識では、お刺身って、大人の男の人の食べ物だった。おとうさんの晩酌のおともだったんだ。子どもが食べるおかずとは別に、焼酎と一緒に出てくる食べ物。それがお刺身だった。

 でも、島に来てからは、その認識が覆ってる。子どもも食べるんだ、お刺身。ごくごく普通のおかずとして、朝ごはんから、すでに食卓に上ったりする。

 だって、漁師さんは、潮次第では明け方に仕事を終えて帰宅する。新鮮だけど売り物にならない魚を、家への手土産にして。漁師さんちの子どもは、だから、朝から魚を食べてくる。日によっては、その調理法がお刺身だったりする。

 今朝の場合は、ちょっと上等な魚のお刺身を、お節料理の代わりにいただいてる。なかなかすごいよね、この感覚。

 朝ごはんを半分くらい食べたころだった。玄関の引き戸が、ガラガラッと開いた。

「マツモトさーん、おるかなー?」

 誰だかわからないけど、おじさんの声。マツモト先生が、さっと立って玄関へ向かった。

「おっ、こぃは太《ふと》か」

 楽しそうに笑う声。「太か」って、「太ってる」ってニュアンスじゃなくて、「大きい」って意味。何が大きいんだろ?

 メーちゃんが、好奇心に目を輝かせて、席を立った。あたしも一緒に行くことにする。

 玄関にいたのは、漁師さん風のおじさんだった。日に焼けまくった顔は、するめみたいな色をしてる。えーっと、誰かのおじいちゃんだったよね、この人。誰だったっけ?

「おーっ、タカハシ先生もおったとですか! いつも孫のダイキがお世話になっとります!」

 そうだ、ダイキくんちのおじいちゃんだ。おっとり系で優しいダイキくんとは正反対なんだよね。運動会のときの大声援、思い出した。

 しかし、あたしがマツモト家にいても、違和感を持たれないわけね。あたし自身、もはや違和感ないけどね。

 ダイキくんのおじいちゃんが持ってたのは、大きな発泡スチロールの箱だった。蓋を開けられて、歓声じゃなくて悲鳴をあげてしまった。

「何このでっかいイカ!」

 えんじ色をしたイカで、全長は一メートルを余裕で超えてる。ギョロッとした目が、野球ボールみたいなサイズ。魚かと思ってたら、ぬるぬる系が出てきた。これって、かなりびっくりする。

 あたしの驚きっぷりが面白かったらしくて。ダイキくんのおじいちゃんは、おなかを抱えて笑った。

「タチイカっち言うとばい、先生。冬場、こげん海の荒れとる日に、南のほうから流れ着くと。たいてい、つがいで来るとさね。オスば先につかまえたら、メスは逃げてしまう。メスが先やったら、オスはいつまでも未練がましく、そこらへんば泳いでさるくと」

 メーちゃんは、ちょっと顔をしかめてる。

「タチイカは硬かけん、あんまり好かん」
「硬いの?」
「ガチガチ。薄くスライスして、細かく切れ込みば入れて、フライか照り焼きにせんば食べられん。タチイカは刺身じゃ無理よ。うち、イカの刺身、好いとるとばってん」

 へー。いろんな生き物がいて、いろんな食べ物になるんだね。

 後学のため、ってことで、あたしは、マツモト先生がタチイカをさばくのを見学させてもらった。でも、すぐ後悔した。

「き、きもい……」

 身が分厚いらしくて、包丁を突き立てたら、刃が根元まで入り込んだ。びしぃっと硬直する足たち。痛いの? 痛いよね? よく見たら、足、本数が十分じゃない。何かに食べられちゃったんだろうか?

 えんじ色の皮は、スイムスーツのゴムみたいな感じで、さすがに食べられないらしい。剥がす作業は、見たくなかった。くるっと回れ右。マツモト先生が、黙々と作業をする気配。

「あの、マツモト先生?」
「ん?」
「それ、オスですか、メスですか?」
「ハッキリはわからんばってん、オスでしょう。大したサイズじゃなかけん」
「え」
「メスのほうが、一回り太かとですよ」
「そのサイズよりも一回り大きいのがいるんですか!?」

 全長百十センチって言ってたよ、それ。重さは十五キロを超えてるって言ってたよ。海の中で遭遇したら、どうするの? ひたすら怖いよ。

「タカハシ先生」
「はい?」

 マツモト先生に呼ばれて、あたしは振り返った。後悔した。だって、マツモト先生の両手に一個ずつ乗ってたのは。

「め、めだ、め、めめめっ!」

 野球ボールと同じくらいの大きさの、ギラギラに光る球体。巨大イカの、巨大な目玉。

 きもい! 怖い! 夢に出る! 初夢が恐怖体験になる!

 マツモト先生が、ニヤッとした。いたずらっ子みたいな顔。

「やだ、もう~!」

 あたしはとうとう逃げ出した。メーちゃんが、よしよしってしてくれた。

 お昼ごはんに出てきたイカのフライと照り焼きは、とってもおいしかった。さんざん怖がらせてくれて腹が立ってたから、きれいさっぱり平らげてやった。

 これは、やっぱり太るフラグ……。
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