マツモト先生のこと―離島で先生になりました―
三月編:離島でお嫁さんになりますか?(下)
あわあわ:包丁研ぎ
しゃーきしゃーきしゃーきしゃーき……。
聞き慣れない音が、キッチンの沈黙のBGMだった。何の音かというと、平たい石に刃物を滑らせてこすり付ける音。要するに、包丁研ぎの音だ。
流しに立って、黙々と包丁を研いでる後ろ姿は、安定のロンT&ジャージ。まくり上げた袖から、筋肉質な腕がのぞいている。
あれ? マツモト先生、ちょっと汗かいてる? もともと寒がらない人だもんね。筋肉あるから。
あたしは電気ストーブのスイッチを切った。三月上旬の日曜日は、曇り。北の風が強くて波が高い。
しかし、マツモト先生、相変わらず凝り性ですね。かれこれ三十分くらい、しゃーきしゃーきやってるよ。
もとはと言えば、一緒に通知表用評価の仕事をしよう、ってことだった。ついでに魚のさばき方を教えてください、って頼んでおいた。
で、夕方になって、いざ魚に取り掛かろうかとしたところ、マツモト先生がストップをかけたんだ。あたしの包丁、切れなすぎるからって。
うん、確かに安物の包丁だし、このところますます切れ味が鈍ってきてたんだけど。マツモト先生に一瞬でダメ出しされて、なんか気まずい。
でも、マツモト先生は全然気にする感じじゃなくて、ひとっ走りして、家から砥《と》石《いし》を取ってきた。使い込まれた黒い直方体は、包丁の刃が当たるとこだけ、白っぽくつやつやしてた。
砥石ってのをどうやって使うのか、あたしはあんまりわかってない。我が家では父がこういうの得意で、ときどきしゃーきしゃーきやってたんだけど、あたしは作業を見たことなかったし。
砥石を水平に固定する。水をときどき差しながら、包丁をほとんど寝せた状態で、刃を砥石に滑らせる。
しゃーきしゃーきしゃーきしゃーき……。
単純作業っぽく見えて、あたしもやってみたんだけど、力加減が難しすぎた。刃をますます傷めそうで、ものの数十秒で断念。手先の器用なマツモト先生に全面的にお任せすることにした。
しゃーきしゃーきのリズムを聞きながら、あたしはキッチンのテーブルに仕事道具を広げてる。子どもたちの様子を毎日書き留めてるノートとか、テストの成績一覧とか。
マツモト先生は、一足先に、今日のぶんの作業を終わってんだよね。包丁を研ぎ終わるまで、先生業の仕事を続けてていいって言われてる。
とはいえ、ねぇ。あたしんちのキッチンウェアのために頑張ってくれてるマツモト先生を無視して仕事に集中できる? んなわけないし。
「よしっ」
マツモト先生が小さく言って、しゃーきしゃーきの音が止まった。
「包丁研ぎ、終わりました?」
「終わりました。待たせて、すみません」
マツモト先生に謝られて、あたしはあわあわしてしまう。
「えっ、いや、その、何言ってんですか? あたしの包丁が役立たずだったから、魚さばけなかったのに。一手間も二手間も余計にかけちゃって、申し訳ないです」
ざーっと音を立てて、マツモト先生が包丁や砥石を水で洗った。水切りカゴに取り出された包丁と砥石は、濡れて滑らかに光っている。
「気にせんでください。包丁研ぎんごたる仕事は、どっちかっていうと、男の仕事でしょう? さて、魚ば料理しましょうか」
マツモト先生がそう言ったときだった。
ぐぅぅ……。
おなかが鳴る音が聞こえた。あたしじゃなくて。
「マツモト先生、おなか減ってるんですか?」
マツモト先生は苦笑いして、ほっぺたを掻いた。手がまだ濡れてて、ほっぺたに水滴がくっついた。
「できれば、さっさと料理して食いたかですね」
「あ、はい、できるだけさっさとできるように頑張ります!」
おなか減ってるくせに徹底的に包丁を研ぎ上げるとか、マツモト先生らしすぎる。
あたしは流し台に立った。魚用ってことにした木のまな板の上には、冷蔵庫から取り出したシマアジ。今朝、水揚げされたばっかりで、すごく新鮮。今日の晩のおかずは、このシマアジの刺身だ。
マツモト先生が、あたしの隣に立ってる。くっついてるわけじゃないのに、空気越しにも温かい。
「よく切れるようになっとるけん、気を付けてください」
「はい」
うん、見た目からして切れそうだよ。包丁の刃、キラキラになってる。
あたしがシマアジを三枚に下ろし始めたとき、マツモト先生が小さくため息をついた。疲れてるんだよね。三月に入ってから、本気で慌ただしいんだ。学期末でもあるし、年度末でもあるし、何より卒業式があるから。
「マツモト先生、卒業式の練習は進んでますか?」
マツモト先生は、五年生と六年生、合わせて六人をまとめて受け持ってる。卒業式の練習では、マツモト先生は、六年生二人を指導中。五年生たちは、あたしの四年生クラスに入ってもらって、練習に励んでる。
「六年生は二人とも賢かけん、自分たちでどんどん練習ば進めとりますよ。それでも覚えることの多くて、ひぃひぃ言いよりますけど」
「でしょうね」
「あ、そこ、もっと深く刃ば入れてよかですよ」
「えっと、こうですか?」
魚をさばくのって、やっぱ力加減がわからない。縦方向に包丁を動かすんじゃなくて、横方向だし。
なんだかんだで、結局すっごく時間かかりながら、若干崩れた刺身が完成した。ごはんは炊飯器のタイマーで、一足先に炊き上がってた。刺身以外のおかずは、冷蔵庫に準備しておいたから、チンしてテーブルに出すだけ。
「……って、散らかしたままだし!」
あたしはあわあわしながら片付けたり、ごはんの準備をしたりする。その間、エネルギー切れのマツモト先生は、椅子に掛けてお茶を飲んでた。ビールもあるって言ったんだけど、まだ仕事があるから、とりあえずお茶でいいって。
ようやく食卓が整って、一緒に「いただきます」をする。
「うまかですよ」
マツモト先生は、ぱくぱく食べながら、にっこりしてくれた。へっへっへ、誉められた。
でも、次はもっと手際よくさばきたい! と、あたしは魚くさいこぶしを固めた。
聞き慣れない音が、キッチンの沈黙のBGMだった。何の音かというと、平たい石に刃物を滑らせてこすり付ける音。要するに、包丁研ぎの音だ。
流しに立って、黙々と包丁を研いでる後ろ姿は、安定のロンT&ジャージ。まくり上げた袖から、筋肉質な腕がのぞいている。
あれ? マツモト先生、ちょっと汗かいてる? もともと寒がらない人だもんね。筋肉あるから。
あたしは電気ストーブのスイッチを切った。三月上旬の日曜日は、曇り。北の風が強くて波が高い。
しかし、マツモト先生、相変わらず凝り性ですね。かれこれ三十分くらい、しゃーきしゃーきやってるよ。
もとはと言えば、一緒に通知表用評価の仕事をしよう、ってことだった。ついでに魚のさばき方を教えてください、って頼んでおいた。
で、夕方になって、いざ魚に取り掛かろうかとしたところ、マツモト先生がストップをかけたんだ。あたしの包丁、切れなすぎるからって。
うん、確かに安物の包丁だし、このところますます切れ味が鈍ってきてたんだけど。マツモト先生に一瞬でダメ出しされて、なんか気まずい。
でも、マツモト先生は全然気にする感じじゃなくて、ひとっ走りして、家から砥《と》石《いし》を取ってきた。使い込まれた黒い直方体は、包丁の刃が当たるとこだけ、白っぽくつやつやしてた。
砥石ってのをどうやって使うのか、あたしはあんまりわかってない。我が家では父がこういうの得意で、ときどきしゃーきしゃーきやってたんだけど、あたしは作業を見たことなかったし。
砥石を水平に固定する。水をときどき差しながら、包丁をほとんど寝せた状態で、刃を砥石に滑らせる。
しゃーきしゃーきしゃーきしゃーき……。
単純作業っぽく見えて、あたしもやってみたんだけど、力加減が難しすぎた。刃をますます傷めそうで、ものの数十秒で断念。手先の器用なマツモト先生に全面的にお任せすることにした。
しゃーきしゃーきのリズムを聞きながら、あたしはキッチンのテーブルに仕事道具を広げてる。子どもたちの様子を毎日書き留めてるノートとか、テストの成績一覧とか。
マツモト先生は、一足先に、今日のぶんの作業を終わってんだよね。包丁を研ぎ終わるまで、先生業の仕事を続けてていいって言われてる。
とはいえ、ねぇ。あたしんちのキッチンウェアのために頑張ってくれてるマツモト先生を無視して仕事に集中できる? んなわけないし。
「よしっ」
マツモト先生が小さく言って、しゃーきしゃーきの音が止まった。
「包丁研ぎ、終わりました?」
「終わりました。待たせて、すみません」
マツモト先生に謝られて、あたしはあわあわしてしまう。
「えっ、いや、その、何言ってんですか? あたしの包丁が役立たずだったから、魚さばけなかったのに。一手間も二手間も余計にかけちゃって、申し訳ないです」
ざーっと音を立てて、マツモト先生が包丁や砥石を水で洗った。水切りカゴに取り出された包丁と砥石は、濡れて滑らかに光っている。
「気にせんでください。包丁研ぎんごたる仕事は、どっちかっていうと、男の仕事でしょう? さて、魚ば料理しましょうか」
マツモト先生がそう言ったときだった。
ぐぅぅ……。
おなかが鳴る音が聞こえた。あたしじゃなくて。
「マツモト先生、おなか減ってるんですか?」
マツモト先生は苦笑いして、ほっぺたを掻いた。手がまだ濡れてて、ほっぺたに水滴がくっついた。
「できれば、さっさと料理して食いたかですね」
「あ、はい、できるだけさっさとできるように頑張ります!」
おなか減ってるくせに徹底的に包丁を研ぎ上げるとか、マツモト先生らしすぎる。
あたしは流し台に立った。魚用ってことにした木のまな板の上には、冷蔵庫から取り出したシマアジ。今朝、水揚げされたばっかりで、すごく新鮮。今日の晩のおかずは、このシマアジの刺身だ。
マツモト先生が、あたしの隣に立ってる。くっついてるわけじゃないのに、空気越しにも温かい。
「よく切れるようになっとるけん、気を付けてください」
「はい」
うん、見た目からして切れそうだよ。包丁の刃、キラキラになってる。
あたしがシマアジを三枚に下ろし始めたとき、マツモト先生が小さくため息をついた。疲れてるんだよね。三月に入ってから、本気で慌ただしいんだ。学期末でもあるし、年度末でもあるし、何より卒業式があるから。
「マツモト先生、卒業式の練習は進んでますか?」
マツモト先生は、五年生と六年生、合わせて六人をまとめて受け持ってる。卒業式の練習では、マツモト先生は、六年生二人を指導中。五年生たちは、あたしの四年生クラスに入ってもらって、練習に励んでる。
「六年生は二人とも賢かけん、自分たちでどんどん練習ば進めとりますよ。それでも覚えることの多くて、ひぃひぃ言いよりますけど」
「でしょうね」
「あ、そこ、もっと深く刃ば入れてよかですよ」
「えっと、こうですか?」
魚をさばくのって、やっぱ力加減がわからない。縦方向に包丁を動かすんじゃなくて、横方向だし。
なんだかんだで、結局すっごく時間かかりながら、若干崩れた刺身が完成した。ごはんは炊飯器のタイマーで、一足先に炊き上がってた。刺身以外のおかずは、冷蔵庫に準備しておいたから、チンしてテーブルに出すだけ。
「……って、散らかしたままだし!」
あたしはあわあわしながら片付けたり、ごはんの準備をしたりする。その間、エネルギー切れのマツモト先生は、椅子に掛けてお茶を飲んでた。ビールもあるって言ったんだけど、まだ仕事があるから、とりあえずお茶でいいって。
ようやく食卓が整って、一緒に「いただきます」をする。
「うまかですよ」
マツモト先生は、ぱくぱく食べながら、にっこりしてくれた。へっへっへ、誉められた。
でも、次はもっと手際よくさばきたい! と、あたしは魚くさいこぶしを固めた。