マツモト先生のこと―離島で先生になりました―
そわそわ:母、来る
その週の土曜日。あたしは港で、朝のフェリーの到着を、今か今かと心待ちにしていた。白っぽい船影が港の防波堤の向こうから見え始めて、徐行しながら湾に入って来る。あー、待ち遠しい!
そわそわしてたら、マツモト先生から、ぼそっと訊かれた。
「寒かとですか?」
「いやいやいや、寒いわけじゃないんですけど」
今日は暖かい。天気もいいし、観光日和だ。
待ち続けること二十分。ようやくフェリーのタラップが下ろされて、待ち人が降りてきた。
「おかあさーん!」
あたしは思いっきり手を振った。おかあさんも、にこにこしながら、手を振り返してくれる。
浮き桟橋の上で、あたしとマツモト先生は、おかあさんと合流した。この土日、おとうさんが会社の都合で家にいない。一人じゃ退屈だからって、おかあさんが島に遊びに来てくれた。
「久しぶりねぇ。年末年始も帰って来られなかったし、二月も週末のたびに海が時化てたものね」
そうなんだよね。あたし、毎週みたいにフェリーの切符買ってたんだけど、毎週みたいに払い戻しになっちゃって。生意気なショウマくんなんか、あたしのこと「嵐を呼ぶ女」って言ってくれたんだよ。タカハシ先生が船に乗ろうとすると嵐が来る、って。失礼なやつめ。
マツモト先生が、おかあさんに向かって、ビシッと礼をした。背筋が伸びた体育会系の挨拶だ。
「お久しぶりです。娘さんには、いつもお世話になっとります」
「あらあら、娘のほうこそお世話になってるんでしょう? いつもありがとうございます」
マツモト先生は、おかあさんのボストンバッグを持った。お礼を言うおかあさん。えーっと、何というか、くすぐったいよね、こういうシーン。家族公認、って感じ?
あたしたちは、のんびりと歩き出した。おかあさんから、島には何があるの、って訊かれて、海と山と学校と教会とお寺と神社しかないよ、って答えておいた。実際そうなんだけど。
「景色がいいわねぇ」
漁船が並ぶ港の風景、車がギリギリすれ違える幅のメインストリート、高台にある教会、教会から見下ろす家々も海。おかあさんは、ひとつひとつを楽しんでる。うん、改めて見たら、確かに、どこもかしこも絵になるんだよね。あたし、最初は全然まわりを見る余裕なんてなかったから、景色のよさに気付かなかったけど。
同じ日本の風景とは思えない。いや、同じ時代に存在してる場所とは思えない、かな? 何にしても、特別で不思議な場所だよね、って気がする。この島に赴任してきたこと、今では、すごくよかったって感じてる。
お昼は、あたしの家で三人で食べた。下ごしらえを完璧にしといたから、調理開始から二十分後には、ブリの照り焼き定食を食卓に上げることができた。いやぁ、あたしってば料理が上達したね。なんちゃって。
照り焼きの下ごしらえは、マツモト家のおかあさんの仕事です。あたしはお味噌汁と温野菜サラダを作って、お米を炊飯器にお任せしただけです。
マツモト先生は口数が少ない。おかあさんに質問されたら答えるって感じで、無表情気味に黙ってると、何考えてるんだか、ほんとにわからない。
緊張してる? んなわけないか。
でも、意外に緊張してたのかもしれないなって、食後に背筋を伸ばしたマツモト先生の一言でわかった。
「おれは、ゆくゆくはタカハシ先生と結婚させていただきたいと思って、交際ば続けさせてもらっとります」
あたしの心臓が飛び跳ねて、息が詰まった。おかあさんは、にっこりしてうなずいた。
「ありがとうございます。そうおっしゃってもらうと、わたしも心強いわ」
正座したマツモト先生は、膝の上でこぶしをきつく握っていた。
「気の早か話って、思われるでしょう。ばってん、タカハシ先生にちゃんと考えてもらいたかとです。教員同士の交際や結婚は、転勤の事情にも絡んできます。一緒におりたくて結婚しても、タイミングが悪かったら、別々の島に転勤になるかもしれん。おれは、そげんとはイヤです」
何で? 何で、そんなにハッキリ言ってくれるの?
嬉しい気持ちと、もやもやした悩みが、一緒に膨れ上がってくる。あたしはこんなにも真剣に想ってもらってる。でも、あたしは、考えても考えても、うまく答えを出せない。
何で別々じゃないの? マツモト先生のこと、好き。結婚したいくらい大好き。離島の小学校のこと、好き。ずっと先生してたい。マツモト先生と学校と、別々の場所で、違う次元で、好きだって言えたらいいのに。
おかあさんが、きれいな姿勢で頭を下げた。
「うちの娘のこと、どうぞよろしくお願いしますね。まだまだ未熟なところばかりですけど、見守ってやってください」
マツモト先生も、慌てて頭を下げた。顔を上げて、おかあさんは笑ってて、マツモト先生も照れたようにちょっと笑った。
あたしは固まったままで、何も言えなかった。
午後、おかあさんを連れて、マツモト家に挨拶に行った。母親同士、全然キャラは違うのに、意外にすんなり打ち解けてた。おかあさんが持ってきた本土のお菓子の代わりに、マツモト先生のおかあさんは新鮮な魚の切り身や手作りのかまぼこをくださった。
あたしは、なんか胸が痛くて、マツモト家を離れるまで、あんまりしゃべれなかった。おかあさんと一緒に漁協スーパーで買い物してたら、校長先生の奥さんとバッタリ出くわした。
あたし、どうでもいい話だったら、普通にできるんだよね。久々のおかあさんの手料理を食べながらしゃべったり、布団に入ってからもしゃべったりしたけど、子どもたちのことばっかり話題にしてた。マツモト先生のことは、一言も、口にできなかった。
そわそわしてたら、マツモト先生から、ぼそっと訊かれた。
「寒かとですか?」
「いやいやいや、寒いわけじゃないんですけど」
今日は暖かい。天気もいいし、観光日和だ。
待ち続けること二十分。ようやくフェリーのタラップが下ろされて、待ち人が降りてきた。
「おかあさーん!」
あたしは思いっきり手を振った。おかあさんも、にこにこしながら、手を振り返してくれる。
浮き桟橋の上で、あたしとマツモト先生は、おかあさんと合流した。この土日、おとうさんが会社の都合で家にいない。一人じゃ退屈だからって、おかあさんが島に遊びに来てくれた。
「久しぶりねぇ。年末年始も帰って来られなかったし、二月も週末のたびに海が時化てたものね」
そうなんだよね。あたし、毎週みたいにフェリーの切符買ってたんだけど、毎週みたいに払い戻しになっちゃって。生意気なショウマくんなんか、あたしのこと「嵐を呼ぶ女」って言ってくれたんだよ。タカハシ先生が船に乗ろうとすると嵐が来る、って。失礼なやつめ。
マツモト先生が、おかあさんに向かって、ビシッと礼をした。背筋が伸びた体育会系の挨拶だ。
「お久しぶりです。娘さんには、いつもお世話になっとります」
「あらあら、娘のほうこそお世話になってるんでしょう? いつもありがとうございます」
マツモト先生は、おかあさんのボストンバッグを持った。お礼を言うおかあさん。えーっと、何というか、くすぐったいよね、こういうシーン。家族公認、って感じ?
あたしたちは、のんびりと歩き出した。おかあさんから、島には何があるの、って訊かれて、海と山と学校と教会とお寺と神社しかないよ、って答えておいた。実際そうなんだけど。
「景色がいいわねぇ」
漁船が並ぶ港の風景、車がギリギリすれ違える幅のメインストリート、高台にある教会、教会から見下ろす家々も海。おかあさんは、ひとつひとつを楽しんでる。うん、改めて見たら、確かに、どこもかしこも絵になるんだよね。あたし、最初は全然まわりを見る余裕なんてなかったから、景色のよさに気付かなかったけど。
同じ日本の風景とは思えない。いや、同じ時代に存在してる場所とは思えない、かな? 何にしても、特別で不思議な場所だよね、って気がする。この島に赴任してきたこと、今では、すごくよかったって感じてる。
お昼は、あたしの家で三人で食べた。下ごしらえを完璧にしといたから、調理開始から二十分後には、ブリの照り焼き定食を食卓に上げることができた。いやぁ、あたしってば料理が上達したね。なんちゃって。
照り焼きの下ごしらえは、マツモト家のおかあさんの仕事です。あたしはお味噌汁と温野菜サラダを作って、お米を炊飯器にお任せしただけです。
マツモト先生は口数が少ない。おかあさんに質問されたら答えるって感じで、無表情気味に黙ってると、何考えてるんだか、ほんとにわからない。
緊張してる? んなわけないか。
でも、意外に緊張してたのかもしれないなって、食後に背筋を伸ばしたマツモト先生の一言でわかった。
「おれは、ゆくゆくはタカハシ先生と結婚させていただきたいと思って、交際ば続けさせてもらっとります」
あたしの心臓が飛び跳ねて、息が詰まった。おかあさんは、にっこりしてうなずいた。
「ありがとうございます。そうおっしゃってもらうと、わたしも心強いわ」
正座したマツモト先生は、膝の上でこぶしをきつく握っていた。
「気の早か話って、思われるでしょう。ばってん、タカハシ先生にちゃんと考えてもらいたかとです。教員同士の交際や結婚は、転勤の事情にも絡んできます。一緒におりたくて結婚しても、タイミングが悪かったら、別々の島に転勤になるかもしれん。おれは、そげんとはイヤです」
何で? 何で、そんなにハッキリ言ってくれるの?
嬉しい気持ちと、もやもやした悩みが、一緒に膨れ上がってくる。あたしはこんなにも真剣に想ってもらってる。でも、あたしは、考えても考えても、うまく答えを出せない。
何で別々じゃないの? マツモト先生のこと、好き。結婚したいくらい大好き。離島の小学校のこと、好き。ずっと先生してたい。マツモト先生と学校と、別々の場所で、違う次元で、好きだって言えたらいいのに。
おかあさんが、きれいな姿勢で頭を下げた。
「うちの娘のこと、どうぞよろしくお願いしますね。まだまだ未熟なところばかりですけど、見守ってやってください」
マツモト先生も、慌てて頭を下げた。顔を上げて、おかあさんは笑ってて、マツモト先生も照れたようにちょっと笑った。
あたしは固まったままで、何も言えなかった。
午後、おかあさんを連れて、マツモト家に挨拶に行った。母親同士、全然キャラは違うのに、意外にすんなり打ち解けてた。おかあさんが持ってきた本土のお菓子の代わりに、マツモト先生のおかあさんは新鮮な魚の切り身や手作りのかまぼこをくださった。
あたしは、なんか胸が痛くて、マツモト家を離れるまで、あんまりしゃべれなかった。おかあさんと一緒に漁協スーパーで買い物してたら、校長先生の奥さんとバッタリ出くわした。
あたし、どうでもいい話だったら、普通にできるんだよね。久々のおかあさんの手料理を食べながらしゃべったり、布団に入ってからもしゃべったりしたけど、子どもたちのことばっかり話題にしてた。マツモト先生のことは、一言も、口にできなかった。