三月のバスで待ってる
ああほら、やっぱり困ってる……。
沈黙の中、私は言葉どころか自分自身が消えたい気持ちでうつむいていると、
「あっ、見てあそこ」
と彼が言った。
思わず顔をあげると、彼の視線の先には、民家の石垣の上をとことこ歩いていく猫が。
「あの猫。たまに見かけるんだよね。かわいいなあ」
ニコニコと目を細めて言う彼を、ポカンとして見つめる。
私はどうやら、すごく古典的なやり方に引っかかってしまったらしい。
「顔をあげて」
もう顔をあげている私に、彼が改まった口調で言った。
「つねに前を向いてる人なんていないけど、下ばかり向いてると見える景色も見えなくなっちゃうよ」
「はあ……」
べつに猫好きでもないし、見なくても構わないんだけど……と思いつつ、つい頷いている私。
「君の名前、訊いてもいいかな」
と、彼がいきなりそう言った。
「僕は三住想太。君は?」
自分の名札を指して言う。
私は戸惑いながら、でも無視するわけにもいかず、
「……櫻井深月です」
ぽつりと答えた。
「みつきって、どういう字書くの?」
「……深いに、月です」
「へえ、きれいな名前だね」
彼は恥ずかしげもなく、さらりとそんなことを言う。
きれいなんて、私に一番不釣り合いない言葉だ。
「私はこの名前、あんまり好きじゃないです」
「なんで?」
「櫻と月とか、柄じゃないし、名前負けだし……」
それにーー
幼い頃の記憶が浮かびかけたその時。
「負けてないよ」
と彼はきっぱりと言った。
「全然、負けてない」
「…………」
どうしてそんなに強調するんだろう。
やっぱり、この人ちょっと変な人かも。
なんだか話しているうちに、緊張感が削がれていく。