三月のバスで待ってる
電子レンジがピーッと音をたてて、ブラウニーが焼き上がったことを知らせる。取り出した瞬間、チョコレートの甘い香りがふわりと部屋に広がった。
ナイフを入れると、サクサクした表面の中にしっとりした生地が現れる。濃厚なチョコレート色は想像以上の出来栄えだった。仕上げに粉砂糖をかけたら、完成。
「うん、いい感じ」
「すっごいおいしそう」
私ひとりじゃ、絶対にできなかっただろう仕上がり。深香が来てくれたことに感謝した。
「お姉ちゃんは誰にあげるの?」
深香がラッピングをしながら言って、私はドキリとした。
「私は……同じクラスの友達だよ」
ふうん、と深香が意味深な相槌をする。
「深香は?さっき、あげたい人がいるって言ってたけど」
「あたしはね、お父さん」
「え?」
予想外の答えに、私は目を見開いた。
お父さんと深香は、私の知る限り、家でもほとんど話していなかったはずだ。でも、お礼って……。
「前、学校帰りにふらふら街中を歩いてたら、お父さんに声かけられたんだよね」
「へえ……」
「仕事帰りだって言うから、珍しく早く終わったのって訊いたら、いつもそんなに遅いわけじゃないって」
「え?」
お父さんが帰ってくるのは、いつも夜の10時過ぎ。ご飯はほとんど外食で、家には寝るために帰ってくるようなものだ。
深香は少し声のトーンを落として続けた。
「家に帰りづらいんだって。家族とどう接していいかわからないって。だからその辺の喫茶店でいつも時間つぶしてるんだって。お父さんって家族に関心ないような気がしてたけど、そんなに繊細だったんだってびっくりした」
「そうだったんだ……」
「その時、私の悩みも聞いてもらったの。クラスに馴染めないって言ったら、なんでもいいから新しいことをはじめてみろって言われて。部活は必須だけどいまさら輪に入ってく勇気もなくて先延ばしにしてたけど、その言葉に押されて、ちょっと興味あった家庭科部に入ってみたの。そしたら新しい友達もできて、楽しみができて、クラスにもだんだん馴染めるようになったんだ」
知らなかった。私の知らないところで、深香も、お父さんも、悩んでいたんだ。