三月のバスで待ってる
「いやいや、忘れ物なんてよくあることだから」
それに、と彼はにっこり微笑んで続ける。
「こんなに暑いとつい頭がぼうっとしちゃうよな。って、運転手がぼうっとしてたらダメだけど」
ふいに自分に向けられたその屈託のない笑顔が、夏の日差しの下で眩しく光って、私はついぼうっとしてしまった。
人の笑顔を見たのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
運転手さんは「どうかした?」と首を傾げる。
「僕の顔、なんかついてる?」
「えっ、いや……すみませんっ」
「あはは、謝らなくても」
さっきとは違う意味で笑われてしまい、私はさらに顔が熱くなった。
「えっと、それじゃあ……」
「ああ、うん。引き止めちゃってごめんね。気をつけて」
彼は目を丸くして言う。なんだか、変わった人だ。
スラリと高い背と、低い声。どこから見ても大人なのに、子どもみたいに表情がコロコロ変わるから、そのギャップに戸惑ってしまう。
もう一度頭を下げて、背を向けて歩き出す。少し歩いたところで、あ、と気づいた。
ありがとうって、言ってなかった。
わざわざ降りてきてまで渡してくれたんだから、お礼くらい言えばよかった……。
情けない気持ちでチラリと振り返ると、
ーーえ?
彼はまだ同じ場所に立って、じっとこちらを見ていた。
驚いて、目を見張った。てっきり、もう戻っているものと思っていたから。
なんで見てるんだろう……。
ほんの一瞬、そう思って、すぐに打ち消した。ちょっと休憩しているだけで、べつに私のことを見ているわけじゃない。そうに決まってる。
思わず自意識過剰なことを考えてしまったことを恥じながら、もう振り向かずに早足で歩いた。