三月のバスで待ってる
「次の時間からは、来月の芸術祭用の絵を描きます。テーマは『日常の景色』です。学校でも家の庭でもなんでもいいので、自分にとっての身近な景色を探してみてください」
美術の中村先生が前に立って話す。
中村先生は若くて美人な先生で、しかも優しく教え方も上手なので生徒がら人気がある。中村先生目当てで美術部に入った人までいるらしい。
「先生にとっての身近な景色ってなんですかー?」
お調子者の男子の質問に、
「もちろん、美術室よ」
と中村先生が涼しい表情で答える。
その女神のような微笑みにうっとりする男子。生徒に軽々しくプライベートを明かさないところも慣れてるなあと感心してしまう。
私はどうだろう、と考えてみた。
昔この街に住んでいたとはいえ、長い間離れていたので、知っている場所はそれほど多くない。
新しい家も、学校も、自分にとってまだ身近とは言えない気がする。
ふと思い浮かんだのは、いつものバス停だった。見なくても、すぐに頭に思い浮かぶ。
朝の澄んだ空気の中に立つ真っ赤な標識、小さな屋根、時刻表ーー
その景色を思い浮かべて、思わず頬が緩むのを感じる。
『私は、この時間が1番嫌いです』
毎朝バスに乗るのが憂鬱で、想太の明るさに卑屈になってそう零した1ヶ月前が嘘みたいに、いまはその光景が日常の景色になっていた。
でも、写生をするにはあの場所で描かなければいけないし、誰もいないからってそれはさすがに迷惑だろう。
ほかに適当な場所を探して描こう、と思った。