三月のバスで待ってる


文房具店の袋から、今日買ったノートを取り出す。表紙の淡い水色をぼんやりと見つめながら、昼間会った運転手さんの顔を頭に浮かべた。

『ハイ、忘れ物』

ふいに向けられた笑顔に、思わずドキリとした。

人に笑顔を向けられることーー。

彼にとっては特別でもなんでもない当たり前のことかもしれないけれど、私にとってそれは、普通のことじゃなかった。

お店で買い物をして店員さんに笑顔で「ありがとう」ございますと言われることはあるけれど、彼のそれはどこか違った。心の奥をぽうっと柔らかく照らされるような、そんな笑顔だった。

「……何考えてるんだろう、私」

自嘲的な笑みを洩らしながら、ノートを机の棚に立てかけた。

普段、人と接することがなさすぎて、そんな何気ないやりとりが特別に思えてしまう。

当たり前に自分に向けられた笑顔に、ああこの人は私とは全然違うんだな、と思った。

初めて会った人でもよく知っている人でも、誰にでも分け隔てなく温かい笑顔を向けられる人。明るく優しい世界で生きている人。

私もそんな人になりたかった。でも無理だった。

どんなに手を伸ばしたって、一歩でもそこに近づくことはできないのだと、私は痛いくらい知っていた。

< 6 / 155 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop