ストロベリーキャンドル
気付いたら私は、
仁の振り上げた包丁を両手で掴んでいた。
ぎゅっと、力をこめる。
仁は震えていて、うつろな瞳で私を見つめていた。
次第に仁の力が消えていき、包丁から手が離れた。
カラン、と包丁を投げ捨てる。
すぐに痛みがじんじん膨れ上がってきて、手を押さえた。
痛くて涙が出る。
でも、それ以上に、心が痛かった。
ねぇ、本当は、仁はこんなじゃないのよ。
優しくて、頼りになる、完璧な男の人だったのよ。
それをこんな風にしたのは、記憶喪失という名の病気。
仁に死にたいと思わせたのは、記憶喪失という名の病気。
私だったらよかったのに。
苦しむのが、私だったらよかったのに。
変わってあげたらと、どんなに思ったことか。
「仁。病院に行こう。今からでも間に合う。
病院に行ってお話ししよう。
心を軽くして、そして明日は家でゆっくりしよう。ね?」
「俺は……ダメなんだ。何も覚えてないんだよ……」
「分かってる。辛いよね。でも、私がいるよ。
私が、一緒にいるから。一緒に頑張るから」
「ダメだ、何も残っていない。俺は、何も価値がない」
「そんなことない。私が残っているよ。私が、いるから」
仁は泣いた。私も泣いた。
どうして、幸せでいてはいけないの?
これが不倫の天罰なのだとしたら、
どうして苦しむのが私だけでないの?
仁が苦しむことはないのに。
どうして仁にこんな重荷を背負わせるの?