婚約者は霧の怪異
「どう助ける? 君はあのバケモノには敵わない。あの少年が標本になるのを見たくないならここから立ち去ればいい」

「ひょ……ひょうほん……!?」

「……それより私は君に興味がある。もう一度訊くが君は何者だ? 両親は人間か? 祖父や祖母は?」

「な、何を言ってるの……」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼす少女は、崖下の様子だけではなく私自身にも怯えていた。けれど逃げなかった。手の甲で涙をぬぐい、キッと私をにらみつけるのだ。


「あ、あ……あなたもバケモノだって言ったよね……あなたなら何とかできないの……!?」


 崖下を指さして言う。まだ諦めてなかったか。


「一応あれよりは格上だ。私が言えばヤツは立ち去るだろうな」

「じゃあ……」

「けれど、そうする理由が私にはない」


 少女は理解できないようだった。面食らった表情で固まる。

 そして「もういい」と、その辺から適当な石を拾い上げ、崖下に投げつけた。
 ヤツがこちらを見上げ、首を傾げる。


「はは、君は……馬鹿なんだな?」


 少女が冷や汗を流しながら「うるさい」と悪態をつき、崖下の様子を睨み続ける。

 ヤツはというと獲物の少年が動けないのをいいことに、新しい獲物を捕まえることにしたらしい。崖を這い上がって来ていた。


「もう少し引き付けて……逃げる」

「君のその震えている膝で逃げ切れるとは思えないな」

「……っ!」


 ギュッと少女は恐怖に耐えるように目を閉じる。


「……弘則は……小さい頃からずっと一緒に育ってきた、弟みたいな存在なの。怖いけど……見捨てない!」


 少し待って欲しい。それでは私が困る。

 まだ少女の正体も何もわかっていないのだ。

 ヤツを力でねじ伏せること自体は容易いが、私はこの土地に客として足を踏み入れている。そこで、ここに住むモノをこちらの都合で傷付けるのはルール違反なのだ。

 ……どうする?数十年に1回するかしないかの舌打ちが自然と漏れた。


「……私から、この場を切り抜けるための提案があるんだが」

「……」

「君、いずれ私の妻になれるか。人間じゃなく、私のようにヒトの姿をしたバケモノとして」

「……それ、私が走って逃げるより助かる確率は上なの?」

「うまく話を合わせてくれるなら、100パーセントを保証しよう」


 黒く大きな手が、足元に伸びようとしていた。

 悩む時間など、少女には与えられない。


「じゃあ私の答えは“なれる”よ。弘則と2人で生きて帰れるなら、何だってやってやる」

「いい返事だ。――……名は」

「雛芽。橘 雛芽」


 少女の肩に手を添え、内側の小さな気配に呼びかける。人間の気配を最小限にしなければならない。もっと表に出てきてくれ、と。

 そして先ほどの口約束を頼りに、人間には見えない縁を結んだ。

 ヤツはゆっくりと目の前まで迫り、私がいることを不思議がってもう一度首を傾げる。


「これぁ、いったい……どういう、ことだぁ?」

「趣味の時間を邪魔して悪かったな。まあ、邪魔したのは私ではないが」


 私の言葉を聞いているのかいないのか、不思議そうにヤツは目の前の少女――雛芽に顔を近付けて気味の悪いうめき声をあげている。
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