婚約者は霧の怪異
「あの、なんで誰も部活棟に来ないんでしょう」


 霧の向こうの銀河先輩に弘則が問いかけた。


「ああ、そうね……わかりやすく言うと、結界? 教室棟にいる生徒たちは“なんとなく部室棟に行く気がしない”とダラダラしているだけで、ここが完全な異界というわけではないわ。そういう、招かれていない者を近付けないという結界」


 先輩は立ち止まり、振り向いて弘則の顔色を確認した。


「このくらいなら平気かしら」

「うっ、は……はい」


 そう言ってはいるけど、顔色はあまり良くない。本当はこれっぽっちも聞きたくないけど、状況が状況なので耐えているといった感じだ。


「じゃあ続けるわね」

「弘則、弘則。話半分に聞いてた方がいいよ。そんなこと、できるわけないんだから」

「う、うん」

「これだけは覚えておいてほしいんだけど、今から案内する部屋だけは例外。そこはただの部屋に見えても異界。どんなことが起こっても不思議ではないわ」


 今度は何を言い出すんだ、と思った時、すぐそばで扉の開く気配がした。

 霧の中に、人影がうっすら見える。


「銀河、おしゃべりが長くて来るのが遅い」

「そんなに喋ってたつもりはないんだけど」


 相手は若い男の声だった。

 扉を開けっぱなしにして、こちらへ歩いてくる。


「こんにちは」


 そうして目の前に現れた、茶色の着物姿の男は、金色の眼を細めてやわらかく微笑んでいた。


「私が噂の“霧男”。名は……そうだな……名前はないから好きなように呼んでほしい。さ、春とはいえ今日は冷える。中へ入るといい」


 部屋の中から明かりが廊下にぼんやりと広がっている。

 銀河先輩の顔を見ると、何を考えているかわからない笑みを貼り付けているだけだった。


「し……失礼します」


 心臓が早鐘を打つ。

 本能が警告している、中に入るなと。

 けれど、逆らえない。
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