婚約者は霧の怪異
 部屋の中は、まるで校長室のような豪華なインテリアであること以外はごくごく普通だった。

 保健室にあるような、大きいヒーターまで置いてある。


「ソファー、好きなところへ座って」


 そう言われて緊張しながらソファーに座る。2人掛けだったので、ぴったりとくっつくように弘則が腰を落とした。


「弘則、大丈夫?」

「俺は……大丈夫……」


 顔色が悪い。唇も真っ白だし全然大丈夫そうじゃない。

 用事を早く終わらせたくて霧男の方を見ると、彼は部屋の隅にあるポットからお湯をカップに注いでいるところだった。部屋の中に、紅茶の香りが広がる。

 そういえば、緊張からかちょっと喉が渇いていた。


 どうぞ、と目の前に置かれたカップ。どう、見ても……普通の紅茶。

 少し舐める程度に私は喉を潤し、向かいのソファーに座った霧男を見据えた。銀河先輩は少し離れた所にあるオフィスチェアに座って、ゆっくり左右に椅子を揺らしながらこちらの会話を聞いている。


「私の呼び名は決まったか?」


 呼び名? そんなもの、今どれだけ重要だと言うんだろう。


「……では、霧なので……ミストで。ミストさん……それで、私たちに何かご用ですか」

「うん、何から言えばいいのやら。話したいことが多すぎて私もまだ整理できていない」


 ふう、と紅茶に息を吹きかけながら、男――ミストは微笑んだまま。


「はじめに尋ねるが、私と会ったことはあるか?」

「え……いや、ないと思いますけど……それが何か?」

「……銀河、何から話せばいいと思う?」

「私はあんたのそういうハッキリしないところ、あまり好きじゃないよ」

「ははは、厳しいな」


 そうだな。よし、では結論から話そう。とミストはカップをソーサーに置く。


「橘 雛芽、人間をやめて私の妻になってほしい」

「は?」

「申し訳ないが拒否はできない。なぜなら君はーー……」


 舌に違和感を感じる。

 ゾッとして目の前の紅茶を見て、口をおさえた。


「ひ、雛ちゃん……!」


 弘則が乱暴に私の腕を掴む。


「いた、痛いって! 何?」

「手が……!」


 言われて自分の手元を見る。

 指先の輪郭がぶわりと大きく歪んで、半透明になる。悲鳴をあげて立ち上がると、足元も消えてきている。


「何これ……」

「落ち着いて。自分の姿を思い出して。鏡の中の姿を思い浮かべるんだ」

「な、なに言ってるの……!?」


 ミストは動揺した様子もなく、ただ落ち着けと言う。

 けれど自分の体が消えて落ち着いてなんていられない!


「仕方ないな、でも私が手を貸すのは最後だ。じゃあ、弘則クン」

「えっ……」

「君は、彼女の形を思い出せるな?」


 怖がっているのに、弘則の方が不思議と冷静だった。

 唇をきゅっと引き締め、目を閉じる。


「あ……」


 少しずつ粒子が指先に集まってきて、はっきりと指を形作る。

 足先をみると、ちゃんと上履きまで元通りだった。


「弘則……」

「雛ちゃん……俺、この人と会ったの……初めてじゃないかも……」


 真っ青な顔で弘則がそう呟いた。
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