婚約者は霧の怪異




 帰り道、同じマンションだからそのまま流れで一緒に電車に乗って、最寄り駅から並んで歩く。


「俺、歩くの早くない?」

「大丈夫だよ、ありがとね」


 今はもう手はつながれていないけど、弘則は私の歩くペースにあわせてゆっくり歩いてくれた。


「弘則、あのね」

「ん?」


 私は顔を見れずに俯く。


「こういうのは、早い方がいいと思って」

「……やだなぁ。ははは……怖いな」


 私が何を言おうとしているのか、弘則は察する。

 もう少し時間をくれないの? くらい言ってもいいとは思う。我ながら、変な話ではあるけど。

 けれど、そこは昔からよく知ってる仲だから言って来ない。私がもう、決めたのを知っている。


「私、弘則と付き合えない」

「……うん…………」


 とてもやさしい「うん」だった。

 その先を言おうとしているのに、でも言葉にならない精いっぱいの弘則を隣で感じ――それだけで、なぜか私の方が悲しくなって涙が浮かんでくる。


「…………理由を……、訊いても、いい?」

「ごめんね、うまく……言えないんだけど。アイツが、好きだとかそういうのじゃないの。今日手をつないで、すっごく心臓がバクバク言ってたけど……でも、何か違った」


 早く離さなきゃって、そればかり考えてた。弘則の事は大切だし大好きだけど、それが愛になる事はないって、わかってしまうの。

 それがわかってるなら、引き伸ばして期待させるより、もっといい人を見つけてもらった方がいいって。わかってるなら、早く言うべきだって。


「……多分さ、俺と雛ちゃん……近すぎたんだね」

「私もそう思う」


 弘則が、ゆっくり深呼吸をする。


「だってこれだけでわかってくれてるんだもん……。本当に、いい奴だよ……」

「…………」


 マンションの敷地内に着いた。

 エントランスに入る前に、お互いぼーっと自分の部屋のある5階のあたりを見上げる。


「……俺が引き下がったらさ、雛ちゃんこれからどうするの? 佐古先輩のこと」

「…………もう、変に意識せずに普通にしてようかなって。なんか、それが一番いい気がする」

「……そう」


 ゆっくりと視線を下ろし、それから私の方を見て弘則はふんわりと微笑んでくれる。


「今日はさ。2つ変なお願いしていい?」

「えっと、内容による」

「1つめは、今日は先にエレベーターで上がっていってほしい。つまり、ここで解散」

「……2つめは?」

「……最後に、ぎゅってしていい?」


 少し迷って、頷いた。

 最後って言ったら、彼は本当に最後にする奴だ。

 そのくらいはきいてあげたい。


 控えめに腕をまわし、その後少し強めに抱きしめられた。


「今日までありがとう。……言ってくれて、ありがとう。これからも、よろしくね」


 それだけ言うと、するりと解放される。


「じゃあ、おやすみ。雛ちゃん」

「うん、おやすみ……弘則」


 私はうまく笑えなくて、情けなく一人エレベーターへ向かう。

 でも、胸のつかえがとれた気がした。

 明日からまた、大切な幼馴染に――私たちなら戻れる。
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