婚約者は霧の怪異
 お弁当を持って教室に戻る途中、渡り廊下で銀河を先頭にして歩いていると三栖斗が静かに立ち止まって私の方を振り向く。

 銀河が気づかずどんどん進んでいくのにも知らん顔でしばらくそのまま私たちは何も言わず立っていた。けれど、私の方が沈黙に耐えられなくて「何?」とたずねる。

 彼の後ろに見える青空がきれいだ。風がやわらかく私たちの髪を撫でながら通り過ぎていく。


「雛芽、あいつ今は男だぞ」

「え? あ、銀河の事?」


 銀河の姿は今やもうすっかり見えない。

 私達がいない事に気づいて戻って来るかとも思ったけど、そんな事はなかった。


「うん……まあ、そりゃわかってるよ」

「気づいていたか? わかりやすく何度も私を挑発していたのを」

「んん?」


 話が飛んだ? いや、繋がってるのか? わかんないよ。挑発って?

 あ、そういえば教室でやたら顔を近づけて話すなって思った時に三栖斗が銀河を回収しに来た事があったっけ。いや、だとしてもあれくらいしか思いつかないし私にどうしろ……と?


 私が記憶をたどっている間にいつの間にか距離が詰められ、私の背中に三栖斗の大きな手がまわっていた。

 そのままゆっくりと抱き寄せられ、私はむぐぅとカッターシャツの中に顔をうずめる形になってしまう。さすがに苦しいので少し上を向いて呼吸を確保した。


「なっなっ!? なに……!」

「君がつけてくれた私の名前、君は忘れてしまったのか?」

「はい!?」

「みすと、だ。呼んでくれ」


 実は、ちょっと意識的に避けていた事だった。

 なんとなく、名前を呼ぶのを避けていた。くん付けもなんだかおかしくて、でも呼び捨てにするとこいつが調子に乗りそうで。


「やだ、呼ばない……っ!」


 お弁当を持ったまま少しもがくが、がっちり抱きしめられてしまってびくともしない。


「ほら予鈴が鳴るぞ」

「くっ……! なんで今更そんなのにこだわるのよっ」


 見上げる三栖斗の表情はどこか楽しそうだ。この時間すら楽しんでる。

 私はというと暴れているせいか心臓がギュッ、ギュッと体に悪そうな鼓動をしている。情けない声が漏れ、睨み返す余裕がない事に気付いてしまう。なにこれ、こんなのは状況のせいであって――卑怯だ!


「……私がこのまま呼ばなかったらどうするの」

「ふふ、ならこのままだな私も」

「はは……面白いじゃん」


 でもこの睨めっこにずっと付き合うつもりはない。だから――もういいや。


「わかった、今日は負けておいてあげるよ。三栖斗」

「……うむ。私も満足だ」


 心なしか彼の顔も赤い。……そういえば割と強めに拘束されていたから私の心臓がバクバクいってたのも伝わってる……? でも今のは条件反射みたいなものだと思うから勘違いしないでほしい。そう、条件反射。


「行こう、午後の授業が始まるぞ」

「足止めしてたのはどっちよ」


 絶対わかってて言わないだけだなこいつ。

 勢いよくため息を吐いて、私は三栖斗から距離をとりながら教室へと急いだ。
< 78 / 109 >

この作品をシェア

pagetop