婚約者は霧の怪異
「あはは、そういう冗談やめてよ」


 弘則はひきつった笑いを見せ、ドアノブをガタガタと揺らす。

 その音に混じって、私達のすぐ後ろで別の音がするのに気付いてしまう。……弘則も気付いたのか、ドアノブを握ったまま冷や汗を垂らして固まった。


ぷぎゅっ……じゅぅ、ぼこん……


 何かもったりとした重い液体のようなものが、泡を吹いている。そんなイメージ。

 それが私達のすぐ後ろでそうして音をたてている。振り向く勇気がない。振り向いたところで、何かいいことがあるなんて思えない。


『ひな? ひな』


 水の中で喋っているような、低くぼわんとくぐもったような声が混じる。


『ひなひなひなひなひなひなひなひな』


 声はひらすら“ひな”という言葉を繰り返す。多分、私を呼んで振り向かせようとしている。


『ひな、ひなひなひな、げらげら!』

「っ」


 グッと強く横に引っ張られる感覚に、思わず悲鳴をあげた。

 次の瞬間、小さく震える腕に抱き締められていた。


「弘……」

「俺だって……」


 げらげら! げひゃひゃひゃ! いつの間にか声は部屋中から何重にも聞こえる。

 ちょっとイタズラされるかもくらいにしか言ってなかったっけ!? それじゃあ済まない悪意をひしひしと感じるんだけど!


「いつも護られてばかりじゃないんだ!」


 ぎゅう……と腕に力がこもり、苦しいくらいだった。でも、それよりも弘則の強さに驚く。

 そして、私は足元のひんやりとした感覚に気が付く。何事かと下を見れば、扉と床の隙間から白っぽい空気の流れが中に入って来ているのがわかった。

 これって。

 すぐに背後でいないはずの3人目の声がした。けど、私は驚かない。


「銀河」


 背後の声は少し大きめのボリュームでそう名前を呼ぶ。目の前の扉の向こう側から呑気そうに「なあにー」と声がした。廊下に銀河もいる。


「七不思議、別に六つに減らしてもいいんだろう?」

「別にいいよー。昔は大人しかったのになぁ。そんなのになっちゃったらねえ。見逃せないよね」

「ふむ、だそうだ」


 ひな……ひな? ひろ、ひろひろ。

 不気味な声はグチャグチャと音を立てながら不協和音を部屋中に響かせる。


「君みたいな奴が気安く私の婚約者の名を呼ぶんじゃない」


 そう落ち着いた声の後、ガシャーン! となにか大きなガラスのようなものが1度に何枚も割れたような音がして弘則と共にビクリと体が震えた。
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