愛していない
私は、彼を愛していませんでした。
誰よりも私を愛し大切にしてくれた彼を、私は愛することができませんでした。
彼に何か落ち度があった訳ではありません。
日常の中で出会い、穏やかに信頼を育み、それを愛と信じて結婚したのは確かです。
本当であれば、それを生涯、愛だと信じ抜くはずでした。
あの人に出会わなければ。
あの人に出会った日のことは今でも覚えています。
「あなたの絵を描きました」
突然の雨に降られてびしょ濡れになり、シャッターの下りた店の前で雨宿りしていた私に、あの人は一枚の絵を渡してきました。
雨に濡れながら走るあなたが綺麗だったから、と傘を差しながら言うのです。
濡れながら走る私を見たにも関わらず、彼は傘を差し出すことではなく絵を描くことを選ぶ人でした。
それでも、私は嫌な気持ちはしなかった。
あの人の描く私は、現実離れしていないのに繊細に描かれていました。
それでいて鮮明な色使いに胸が騒ぎました。
「私、結婚しているんです」
なぜかそう口走っていました。
恥ずかしくなって顔を伏せると、水たまりに耳まで赤くなった優しい顔の自分がいました。
彼はふっと優しく笑いました。
自分でも知らない自分の顔を見せてくれる人。
それが、あの人でした。
彼に、そう、夫に、何か不満があった訳ではありません。
彼は、毎日私を気遣い大切にしてくれました。
彼が「絶対に幸せにする」と誓ってくれた時は心から嬉しかった。
それは本当です。
周囲の人も、素晴らしい夫に恵まれてよかったと言ってくれました。
だから、私も大切にしようと思いました。
ただ、いつもどこか引っかかっていて、あの人と出会ってからはより一層大きな歪みを感じました。
仕事終わりの帰り道、あの人と偶然会うことが多くなり、いつしか約束して会うようになっていました。
あの人と想いが通じ合うまでに時間はかかりませんでした。
あの人も最初見たときから私に惹かれていた、と。
私の頬に触れて、唇が触れるくらい近付いて、その寸前で離れました。
その時、初めて結婚していることを後悔しました。
彼に自由に触れることもできない。
私は、最低な人間です。
そう周りに罵られる前に自分で言ってしまうところも含めて、最底辺の人間です。
でも、勿論そんな関係は長くは続きませんでした。
彼が転勤することになったのです。
私はついていくことになりました。
彼は何も言わなかったけれど、きっと転勤願いを出したのだと思います。
それでも、何も恨みには思っていません。
そんな資格はありません。
あの人とはお別れすることになりました。
付き合ってもいませんでしたが、これからは会うこともない。
それは重々分かっていました。
「お元気で」と彼は穏やかに笑ってくれました。
最後に、強く抱き締められました。
私も強く強く抱き締め返しました。
身体中の骨が折れても構わないと思いました。
彼の骨も折れても構わないと思いました。
キスもない、ただ激しい抱擁一つです。
それでも責められるには十分でしょう。
それくらい私の心は、あの人で満たされていました。
でも、思うのです。
俺と一緒にいてほしい……そう言ってくれたなら、私はそうしたでしょうか。
勿論、そうしたかった。
それは心からの願望、いや、欲望ではありました。
でも、きっと私はそうはしなかったと思います。
私にとって、愛していない人を傷付けることは怖いことでした。
許される術を知らない。
恨まれ続ける勇気がなかった。
どちらかを傷付けてしまうなら、愛している人を傷付けることを選びます。
愛しているから傷付けることを許してほしい。
愛しているから同じように傷付いていてほしい。
罰も共有できる気がした。
だから、私はあの人を選べなかったのではなく、選ばなかったのです。
それから、何時も彼は私を愛してくれました。
私も愛する代わりに、懸命に彼を大切にしました。
私の愛は、あの人を抱き締めた時に尽きてしまいました。
全て、あの人の元に置いてきました。
誰よりも私を愛し大切にしてくれた彼を、私は愛することができませんでした。
彼に何か落ち度があった訳ではありません。
日常の中で出会い、穏やかに信頼を育み、それを愛と信じて結婚したのは確かです。
本当であれば、それを生涯、愛だと信じ抜くはずでした。
あの人に出会わなければ。
あの人に出会った日のことは今でも覚えています。
「あなたの絵を描きました」
突然の雨に降られてびしょ濡れになり、シャッターの下りた店の前で雨宿りしていた私に、あの人は一枚の絵を渡してきました。
雨に濡れながら走るあなたが綺麗だったから、と傘を差しながら言うのです。
濡れながら走る私を見たにも関わらず、彼は傘を差し出すことではなく絵を描くことを選ぶ人でした。
それでも、私は嫌な気持ちはしなかった。
あの人の描く私は、現実離れしていないのに繊細に描かれていました。
それでいて鮮明な色使いに胸が騒ぎました。
「私、結婚しているんです」
なぜかそう口走っていました。
恥ずかしくなって顔を伏せると、水たまりに耳まで赤くなった優しい顔の自分がいました。
彼はふっと優しく笑いました。
自分でも知らない自分の顔を見せてくれる人。
それが、あの人でした。
彼に、そう、夫に、何か不満があった訳ではありません。
彼は、毎日私を気遣い大切にしてくれました。
彼が「絶対に幸せにする」と誓ってくれた時は心から嬉しかった。
それは本当です。
周囲の人も、素晴らしい夫に恵まれてよかったと言ってくれました。
だから、私も大切にしようと思いました。
ただ、いつもどこか引っかかっていて、あの人と出会ってからはより一層大きな歪みを感じました。
仕事終わりの帰り道、あの人と偶然会うことが多くなり、いつしか約束して会うようになっていました。
あの人と想いが通じ合うまでに時間はかかりませんでした。
あの人も最初見たときから私に惹かれていた、と。
私の頬に触れて、唇が触れるくらい近付いて、その寸前で離れました。
その時、初めて結婚していることを後悔しました。
彼に自由に触れることもできない。
私は、最低な人間です。
そう周りに罵られる前に自分で言ってしまうところも含めて、最底辺の人間です。
でも、勿論そんな関係は長くは続きませんでした。
彼が転勤することになったのです。
私はついていくことになりました。
彼は何も言わなかったけれど、きっと転勤願いを出したのだと思います。
それでも、何も恨みには思っていません。
そんな資格はありません。
あの人とはお別れすることになりました。
付き合ってもいませんでしたが、これからは会うこともない。
それは重々分かっていました。
「お元気で」と彼は穏やかに笑ってくれました。
最後に、強く抱き締められました。
私も強く強く抱き締め返しました。
身体中の骨が折れても構わないと思いました。
彼の骨も折れても構わないと思いました。
キスもない、ただ激しい抱擁一つです。
それでも責められるには十分でしょう。
それくらい私の心は、あの人で満たされていました。
でも、思うのです。
俺と一緒にいてほしい……そう言ってくれたなら、私はそうしたでしょうか。
勿論、そうしたかった。
それは心からの願望、いや、欲望ではありました。
でも、きっと私はそうはしなかったと思います。
私にとって、愛していない人を傷付けることは怖いことでした。
許される術を知らない。
恨まれ続ける勇気がなかった。
どちらかを傷付けてしまうなら、愛している人を傷付けることを選びます。
愛しているから傷付けることを許してほしい。
愛しているから同じように傷付いていてほしい。
罰も共有できる気がした。
だから、私はあの人を選べなかったのではなく、選ばなかったのです。
それから、何時も彼は私を愛してくれました。
私も愛する代わりに、懸命に彼を大切にしました。
私の愛は、あの人を抱き締めた時に尽きてしまいました。
全て、あの人の元に置いてきました。
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