愛溺〜偽りは闇に堕ちて〜
「自分からキスしたいと思うなんて初めてだよ、川上さんは俺を狂わせるね」
「それはこっちの…」
セリフだ。
最後まで言わなかったのは、瀬野を有利な立場に持っていかせたくないから。
「それはこっちの?」
「…っ、早く退いて!」
瀬野の胸元を必死に押し返すけれど、うざいくらいにピクリとも動かない。
「必死になってる」
「もう本当に…」
色々と限界がやってきて、どうにかして瀬野を突き放したいと思っていた時だった。
家のドアの鍵が回される音が聞こえたのは。
「……っ」
その音を耳にするなり、瀬野が目を見張る。
これが緊急事態であることは今の一瞬で伝わった。
瀬野より先にゆっくりとドアの方に視線を向ければ───
「あっ…」
それは女の人の声で、小さくか弱いものだった。
恐らく私たちがいたことに相手は驚いたのだろう。
身長は多分、私ぐらいで。
栗色のロングヘアーに濃いめのメイクをしている彼女は、派手な女の人だった。
この人が瀬野のお母さんなのだろうか。
派手なメイクをしているため、瀬野と似ているかどうかはあまりわからない。
「お帰り、母さん」
それは“オモテ”の瀬野だった。
穏やかな笑みを浮かべているけれど、作っている笑顔だとすぐにわかった。