ティアドロップ(短編)


「それはそうと、どうやってここに?」


やっと放してもらい、すっかり冷めたコーヒーを飲む。屋上の鍵を閉めているので、ここには誰も入れないはずなのだ。


彼はぶっきらぼうに「あっちから」と隣の工場棟に目を向けている。


「まさかビルの間を飛んで来たんですか!?」


「助走つけたら行けるだろ」


「何してるんですか!落ちたら死んじゃいますよ!」


「どの口が言うか」


西園寺さんは元々迫力のある切れ長の目をさらに険しくさせる。ため息とともに語られたのは、下から見上げたら飛び降りそうな人の脚が見えたこと。屋上は立ち入り禁止と聞いて隣のビルから説得しようとしたこと。登ってみれば私がいて、慌てて渡ってきたこと。

私の軽はずみな行動のせいで西園寺さんを危険にさらしてしまうとは思わなかった。


「すみませんでした、誤解を招くようなことをして。リフレッシュのつもりがとんだ大迷惑ですね」


「誤解…でもないだろ。

『死んでやる』とまで思ってなくても『死んでもかまわない』くらいの気持ちがなきゃ、あんなことしないぜ」


図星だった。けれど返答に困ることもなく「そんな事ありませんって」とごまかす。嘘は得意なのだ。


「西園寺さんだって、まさか『死んでもかまわない』と思ってビルを飛び越えた訳じゃないでしょう?」


「お前のためなら、それくらい構わねーよ」


「…?」


西園寺さんはたまに理解の斜め上の冗談を言う。笑うべきところなのか分からずに曖昧な表情で固まっていると、西園寺さんは不服そうに鼻を鳴らした。


「あの夜、伝わったと思ったんだ」


「え?」


西園寺さんは「まあ聞け」と続ける。


「初めて本当のお前と会話して、本当のお前を見たと思った。目が合うだけで逆らえない感情に落ちてくのは、お前も同じだと信じて疑わなかった」


何を言ってるの。全部私の幻聴だろうか。震えて足元がぐらぐらして、風にはためくストールの首もとを掴む。


「遠距離ってどーなんだとか、いつかお前をアメリカに呼べるかとか。夢みたいなことばっか考えてな。

朝起きるまでは最高だったよ。最高に幸せだった。」


「……!」



理解より先に、心がパシャんと弾ける音がした。


嬉しい。


嬉しくて堪らない言葉が胸を苦しくさせるなんて知らなかった。できるなら幸せなまま、今死んでしまいたい。


「馬鹿な話だよな。起きたら一人だし、知らない金が置いてあるし。なあ、お前は俺を一晩買った気でいたのか?」


「えっ!???」


「俺の値段なら一万は安いだろ」


「違いますって!!お部屋の代金です!足りないならちゃんと払います。

西園寺さん…を、買うだなんてありえません…!」


息を切らしながら訴えると西園寺さんは目を丸くして「部屋代か、考えたことなかった」などと心底意外そうに呟いている。何でも見通しているように見える西園寺さんに、そんな天然な一面があるとは知らなかった。


「なら、あの日は何で逃げた?」

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