ティアドロップ(短編)
私は結婚と同時に会社を辞めて、今はシブヤ健康フーズの工場で事務をさせて貰っている。働きたいという私の意思を尊重してくれた幸久さんに、これ以上を望むのは贅沢だとわかってる。


けれど……


最近は私の方が帰宅が遅いから、食事を食べるなりソファーで寛いでいる幸久さんに手伝って欲しいと思うことはある。



「ね、食洗機買おうよ。 節水にもなるし共働きなら便利だって聞くよ?」


「えー、要らないよ。そういうの って心が込もってないから嫌いなんだ。」



そう言われてしまうと何も言い返せない。夫のために皿洗いすらできないのかと暗に怒られてるみたい。



「 家事も満足にできないようなら、仕事なんかサボって帰れば良いじゃん。社長夫人なんだから誰も文句言わないって」


にっこりと微笑む幸久さんの顔を見て、彼に食洗機を買う相談をしたことを後悔した。既に話題は関係ない方に向かってしまってる。


「でも急に帰ったら周りの人の迷惑になるし」


「時乃ちゃんを会社に置いてるのはただの税金対策だって言ったよね。みんな形だけだって分かってるよ。」


会社に置いてる。籍を置くという意味で言っているのはわかるけど、置物のような言い方に胸にチクリと痛んだ。



「うん……家事はおろそかにしないから」


「分かった。そう言うなら、時乃ちゃんが事務を続けるのを許してあげる」


「ありがとう」


幸久さんと話していると、私は彼にたくさんのことを我慢させて、許して貰ってるばかりになる。


「毎日夕飯が作れる時間に帰ってきてよね。時乃ちゃんの手料理、俺大好きなんだ」



「うん…」


ここで「嬉しい」と微笑めば万事解決と分かっている。けれど、何故か今日はそれが出来ない。あかぎれのできた指先が痛んだ。


とりあえず、食器洗い用のゴム手袋買おう…



「あ、分かった。

最近シてないからイライラしてるんでしょう?」


「!」



大きな勘違いをされてる。今の私はそれどころではなく、ふるふると首をふった。

今日も帰宅してから一度も座ることのないまま食事を作り、やっと片付けが終わった今は体が疲れきっている。この後お風呂に入って寝るだけでも12時を過ぎてしまうだろう。



「素直じゃないのは良くないよ?

せっかくたまには抱いてやろうと思ったのに」



いつから私は『抱いてもらう』側になったんだろう。もう若くはないし、男の人にとって魅力的な容姿じゃないのは知ってる。だとしても、まるで慈悲のようにそう言われると心がぐしゃっと潰れてしまう。

心の痛みを無視して「ありがとう」と伝えた。




「分かればいいよ。シャワーで綺麗にしてきてね。あ、でも化粧は落とさないで」



携帯を持って寝室に向かう幸久さんの背中を見送りながら、ゆっくりお風呂に浸かることを諦めた。急いでシャワーで体を洗って、メイクを直す。
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