君のキスが狂わせるから
 次の日、いつも通り会社へ向かう途中で空を見上げると、そこには抜けるような青空が広がっていた。
 晴れている日はいつだってこの風景が広がっていたはずなのに、今まで目に入らなかったのが不思議だ。

(気持ちの中が変化するだけで、見える風景まで変わるんだな)

 2月の冷たい空気をすっと吸う、いつもより少し早めにオフィスへと入る。

(経理の人はまだ一人も出勤してない)

 デスクに鞄を置いてコートをハンガーへかけると、私は朝のコーヒーを買いに廊下へと出た。
 すると、目の前からゆっくりした足取りで深瀬くんが歩いてくるのが目に入った。
 濃いグレーのロングコートが、背の高い彼にとてもよく似合っている

「おはよう」

 いつも通り挨拶をしたけれど、深瀬くんから返事がない。

(あれ…)

「深瀬くん?」

 名を呼ぶと、彼はハッとしたように視線を上げた。

「え…あ…愛原さん」

 彼らしくない様子に、私は通り過ぎようとしていた足を止めた。
 いつもなら無愛想ながらも挨拶を返してくれるのに、今日はそんな余裕もない感じだ。
 顔も青白く、どことなく元気がない。

「どうしたの……体調でも悪いの?」
「いえ、体調は別に普通です。すみません」

 それだけ言うと、彼はフロアの中へと入っていった。

 本人が大丈夫だと言っているのだから、これ以上何か言うのはお節介の何ものでもないだろう。
 私は少しだけその場で立ち止まっていたが、すぐに思考を切り替えて休憩室に向かった。


 この日の仕事は思いの外順調で、全員が残業なくすっきりと帰れる状態だった。
 私も心地いい仕事疲れを感じつつ、今日は久しぶりにお一人様で食事に出かけようかなと考えながら会社を出た。

(スタジオはお休みして、今日は自主レッスンにしよう)

 スマホでお店を探していると、「お疲れ様です」と声をかけられる。
 声の主は深瀬くんだとすぐにわかり、正直声が上がりそうなほど驚きつつ体が強張った。

「あ、お疲れ様。深瀬くんが定時上がりなんて、珍しいね」
「たまには早く帰りたい日もあるんで」

 朝と同じように元気のない調子でそう答えると、彼は視線を駅に向けて言った。

「今から海、見に行きません?」
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