君のキスが狂わせるから
「あなたすごいわよ。私は乗り越えられなかったもの。『彼の家』が望む女性像にはとても近づけそうになかった」
「私だって難しいと思いますよ」
「でも家のことを話されても別れを選んでないわけでしょ?」
「……はい。保留にはしてますけど」
ミホ先生ははーっと息を吐いて、何かを吹っ切るように肩をくるりと回した。
「私……好きって事と、人生を一緒に歩むことは違うって思ってるの」
「好きな人との人生は選ばないってことですか?」
「そうじゃないんだけど。向いてないのよ、誰かの生き方に合わせるっていうことが」
ミホ先生の手にしたビールの泡が少しずつ萎んでいくのを、なんとなくやるせない気持ちで見つめる。
直感だけれど、ミホ先生はまだ海斗を好きなんじゃないかと思ってしまう。
「格好つけだなって自分でも思う。ただ、こんなにも負い目を感じた状態で一緒になっても、若い彼を満たすような女でいる自信がなかったわ」
「…っ、どうしてミホ先生が負い目を感じる必要があるんですか!」
思わず私は声を大きくしていた。
海斗のことは私も好きだ。でも、ミホ先生だって尊敬していて好きなのだ。
ミホ先生の本音を聞いたら、変な話かもしれないけど…応援したいと思ってしまう。
「二人が納得した関係なら、お互いを満たし合わないと…つまり海斗にもミホ先輩を幸せにする責任があったはずです」
言い切ってから、一口しか飲んでいなかった泡の消えたビールを飲み干す。
するとミホ先生は私を見つめながらくすくすと笑った。
「海斗があなたをいいと思った理由がなんとなくわかるわ」
「え?」
「普段は自分を抑えすぎなほどなのに、ここ一番っていうところで直感に忠実っていうか。要するに素直なのよ…私が持っていないものだわ」
(素直……分かりやすいとは言われていたけど、そういうこと?でもそれって、望んでいた自分の姿じゃない)
「私は、大人の女性になりたくて……」
私は意を決して、今までの自分の思ってきたこと口にした。
「30過ぎた頃から、どうやったら飄々とした格好いい大人になれるだろうって思ってました。でも、実際は20代の頃とさほど変わらなくて。だからあまり語らないことで雰囲気だけそれらしくしようとしてたんです」
そう。
年齢なんてとつっぱねていた頃もあったけれど、誕生日がくる毎に迫ってくる焦りからは逃れきれなくて。
付き合っていた彼氏に逃げられてからは、もう恋愛することすら怖くなってしまった。
だからミホ先生のように自立した大人の女性に憧れた。
人とは適度に距離を取りつつも、しっかり交流もしていて、判断も的確で穏やかで。
「だから私の持っている素直さっていうのは、きっと幼さなんだと思います」
「……でも、それを魅力だと思う男性もいるっていうことよ。愛原さんはその素直さを持ったまま、彼と幸せになってほしいわ」
そう告げたミホ先生の声色は今までよりずっと優しいもので、涙が出そうになった。
こんなふうに相手の幸せを望む声をかける大人になりたい、と思っていた女性だ。誰がなんと言おうと、ミホ先生は私の憧れでいつづける。
「私なら…ミホ先生を手放したりしないです」
「ふふ、ありがとう。でも私は気まぐれだから、長く同じ人とは一緒にいないのよ。スタジオも今月いっぱいで別の場所に移るつもりだし」
「えっ!」
それを伝えようと思って誘ったらしいのだが、結局海斗の話を避けることもできなくて、その話が先になってしまったという。
ミホ先生のいないスタジオ。
想像しただけで寂しいし、心の支えがなくなる気分だ。
「……寂しいです。それに心細いです」
「大丈夫よ。あなたには海斗っていう味方がいるんだし」
「それは、まだわからないですよ。男女の絆は、どこであっけなく崩れるかわからないんですから」
ミホ先生はそれもそうねと言いつつ悪戯っぽく笑う。
「でもね、愛原さんはこのまま個人でやっていてもヨガは極めていける人よ。自信持って。あなたは本当に可愛いし魅力的なんだから」