優しい三途の川の渡り方
車一台がようやく通れるほどの道が続く。
その上で、スニーカーの地面を弾く音と、パンプスのコツコツと鳴く深い音だけが響いていた。
もう随分と歩いている気がする。空が少し赤く染まりだしてきた。
足がびりびりと痛む。血の巡りが悪いせいだろう。なぜだか笑えてきた。弱々しい最期を迎えている自分に酔っていたのだ。
「ナガト、どこに向かってるの?探してる人の家?」
ナガトは少し間をあけた後、木の葉が揺れる音と重ねて口を開いた。
「探してる……人の実家かな。今日のはずなんだ」
そこでナガトは足を止めた。つられて高く深い足音も消える。
「……やっぱり、人ってどうしようもなくなると、誰かに縋りたくなるんだよな」
ナガトの背中は小さかった。あんなにも堂々としていた彼はどこに行ってしまったのだろう。
「ナガトでもそんな時があるの?」
「あった。今だな。俺は俺だから、別にお前に話す必要なんてないだろうし、結局どうにもならないことなんだろうけど…。それでも、吐き出していいか?」
ゆっくりと体をこちらに向けるナガト。その姿は逆光に包まれ、まるでナガト自身から光が漏れ出しているかのようだった。
話すとはなんのことだろう。今探しているものなのか、探す原因になった過去か。
いずれにせよ、それはきっとナガトにとって一番重荷であり、辛い事なのだろう。もうすぐ死んでしまう私に話したくなるくらいに。
「いいよ。私もう死ぬし、今後に影響は出ないから大丈夫。それに、こんな私でも一応まだ生きてるらしいから、愚痴をこぼす相手くらいはできるよ」
風に踊らされた木の葉が、私たちの足元で舞い、去っていく。
ナガトは、深く息を吐いた。そして、「よし」と小さく呟く。
「ずっと、婚約者を探してるんだ。もう何年も。大学で出会って、付き合って、卒業して仕事も少しずつ慣れてきて、婚約した。
まなみって言うんだ。式の予定もあった。だけど、突然連絡が取れなくなった。
多分あれは二月頃だ。四月からまなみが転勤するかもしれないってのは知ってたけど、どこに住むのかは決まっていなかった」
何年も婚約者を探しているだなんて。そんなのもう結婚詐欺か浮気か何かでしょ、と言いそうになって止める。
ナガトは否定しなかった。だから私も否定はしない。
「一度だけ、まなみの実家に行ったことがあるんだ。まなみは大学から一人暮らしをしていたから、かなり遠出だったし、ほとんど覚えていない。
でも、確かこの辺なんだ。今日がまなみの祖父が亡くなった日で、法事があるって言ってた。だからきっと、今日こそ会えるんだ」
真っ直ぐな瞳からは、彼女を信じているという思いが伝わってきた。
ああ、こんなにも裏切られたであろう感覚が拭えない相手を、今でもずっと愛しているだなんて。
なんて愚かで、馬鹿で、哀れなんだろう。
それなのに、羨ましいという感情が私を更に大きく包んだ。
何故だろう。ぽっかり空いた胸の穴に、ただ一言、『羨ましい』という声が聞こえた。
羨ましい。寂しい。誰かにこんな風に愛されてみたい。誰も私を好きになってくれない。
大事にしてくれない。周りの人は皆、誰かを好きになって、誰かに愛される。なのに私はどちらもない。愛したことも、愛されたことも。
辛うじて両親が埋めてくれていた寂しさの穴も、雨が降るたび土が緩み、終わりの見えない落とし穴にでも落とされた感覚に陥った。
そうだ、だからこそ羨ましい。
例え裏切られていたとしても、彼女のことを想い続けるナガト。
一人の男を捨てたにも関わらず、未だに愛されている彼女。
汚くて汚くて、綺麗だった。
泥の中の宝石だ。
「ナガトが信じてるなら、きっと会えるよ」
「……ああ」
きっと、生きている人が幸せだと感じる理由は、こういった宝石があちらこちらに落ちているからだろう。
宝探しで拾い上げられた小さな宝石。
その宝石を手に取って、一体どう感じるのかは人それぞれだ。
ナガトは見つけた一つ一つを、とても大切にしている。
一方、不幸だと感じる人は「こんなにも小さいのか!」と、折角見つけた一粒を、簡単に捨ててしまうのだろう。
私はきっとそれだ。大きな宝石が落ちていないとわからない。大切にできない。だから幸せだと感じられない。
いつまでも大きな幸せだけを探して、小さな物には目もくれないのだろう。
塵も積もれば山となるというのに。
そうだ、わかっていた。だからこうなってしまったのだ。
「多分あの道を左に曲がったところだ」
ナガトの声で、いつの間にか自分の靴を眺めていたことに気が付く。
そこで先程ナガトと話したことを、思い出した。
『私は私で、ナガトはナガトだもんね』
この一瞬で、既に忘れてかけていた。何度も何度も呼び起こさなければ、元の負の感情に支配される。
羨ましいという気持ちも、自分が駄目だと思う心も、全てはそれでいい。私は私だから。
繰り返し自分に言い聞かせる。
ナガトは自ら、怖いと思う道を進んでいる。私はそれに着いていく。それでいい、間違っていない。
無理に前に出る必要はないから。
「ここだ」
ナガトは低く黒い門の前で、視線を上げた。
小さな門は、胸辺りまでしか高さが無く、簡単によじ上れそうな状態。そして、その先三メートルほど、コーラルピンク色の上り階段が続いていた。
「ピンポン押すの?」
下からナガトを覗き込む。ナガトは眉間に皺を寄せ、ゴクリと唾を飲み、いかにも緊張を隠しきれない様子だった。
「……お前が押してくれ……」
「は!?」
声を絞り出したナガトは、ここまで来て私に託そうとする。あれだけ堂々と胸を張った人でも、ここは無理だと逃げる場面があるのだと知った。
「あのう……」
ふと横から綺麗な声が聞こえた。そちらに顔を向けると、お腹の大きな女性が立っている。
一目見ただけでわかったことがある。この人はとんでもなく美人だと。
「家に何か、御用でしょうか?」
固まっている私に対し、女性がそう話しかける。
家?ということはもしかして。
「あ、も、もしかしてまなみさんですか……?」
「あ、はい。そうです」
これが、ナガトが好きになった人か。
忘れられないのも無理はない。
妊婦らしき姿にも関わらずモデルのように細い足、真っ白でキメ細かな肌、若干パーマのあたった短い黒髪は、芸能界にいてもおかしくないほどの美しさだった。
「な、ナガト……!」
まなみさん、いるじゃない。そう話しかけようと背後に視線を送ると、そこにナガトの姿はなかった。
ずっと奥の曲がり角を曲がる、残像だけが私の視界に入る。
「ちょっと、置いていかないで……」
「長都……?」
私がナガトを追いかけようとした時、まなみさんが今にも泣き出しそうな表情で、私を見つめていた。
「今、長都って……。あ、いや、ごめんなさい。聞き間違いよね……」
まなみさんは、どうもナガトという言葉が引っかかっているらしい。自分が捨てた男の名前だからだろうか。
「ナガトは私の知り合いです。ナガトとまなみさんは、婚約してたんですよね?」
そこまで言うと、まなみは大きな黒い瞳から、涙を流した。美人は泣き顔までも美しかった。
「ママ!?」
泣き出した女性に、そう叫んで駆けてきたのは四歳くらいの小さな女の子。
髪は二つに結ばれ、小さな手でまなみさんのスカートを握りしめていた。
「ママをいじめちゃだめ!」
私に対し、きつく睨みをきかせる少女は、恐らくまなみさんの子供だろう。浮気相手と結婚したのか。出来ちゃった結婚なのかもしれない。
「どうした、大丈夫か?」
同じように、少し離れたところから背の高い男性が姿を現した。
三十代半ばといったところだろうか。丁寧に剃られた髭や、よくあるサラリーマンらしき髪型は、真面目さを強調させる。
この人が浮気相手か。
そう一人で冷たく見つめていた。
「違うの。この方、あの人の知り合いらしくて……思い出しちゃって……」
浮気相手には公認なのか。
男性は何か勘づいた表情で、少女に「先に入っていなさい」と言い聞かせる。
少女は母親が心配なのか、嫌だと一向に握りしめたスカートを離さない。仕方なく男性が少女を担いで中に入っていった。
少女の喚き声がだんだんと遠くになった時、まなみさんがようやく口を開く。
「純……長都くんとは、どういった繋がりで……?」
「いや、そんなに深くは知りません。ただナガトはまなみさんのことを探していて……」
「私を、探していた?」
「はい」
まなみさんは涙を浮かべたまま、眉をひそめた。
ナガトは帰ってこない。あれだけ会いたいと言っていたくせに。
でも、理解出来る。浮気相手と結婚し、お腹を大きくした婚約者の姿など、見たいわけが無い。
「どうして純が私のことを……?私の方が、ずっとずっと探しているのに……」
まなみさんは堪えきれなかったのか、地面に膝をつけ、泣き出した。
どういうこと? 探していたのはナガトの方なのに、まなみさんも探しているって。
でも、探しているのなら、どうして結婚なんて。
「ど、どういうことですか?」
わからない。二人に何があったのか。
気持ちがすれ違ったのか。誰かに騙されたのか。
どうして二人とも互いを想って苦しんでいるの。どうして二人は、幸せそうな人生の中、こんなにも離れていたの。
こんなこと、今日死んでしまう私が気にすることでもないのに、何故か私は二人の過去に踏み込みたくなった。
日が落ちるスピードが加速する。東の空は深海の色に染まり出し、ぽつんと一つ、星が輝きを放っていた。