消女ラプラス
「始君、油断しないで! 十六時の方向から奇襲!」

「え、え⁉」



ラプラスにもらったタオルで全身の返り血を拭いていた僕は(彼女自身はまだ僕に近づこうとしなかった)丘の上から降ってきた歌姫を見て慌ててリングを起動した。

ラプラスの自動操縦で触手の攻撃を掻い潜り、懐に入り込んでプラズマブレードで胴体を横に真っ二つにする。

痛みで耳をつんざく様な悲鳴をあげる歌姫の顔面に剣を突き立てると、それはようやく大人しくなった。

自動操縦が解除されると僕は疲労感を感じながら呟く。

「このままじゃダメだ。そろそろ行動を起こさないと、こちらが一方的に消耗させられる」

「でもどうするの? 私の力では時雨鏡花の居場所は感知出来ない。まださっきと同じ場所にいるとは思えないし、下手に動けば歌姫に奇襲されるリスクも上がるのよ」

「それでも探しに行くしかない! グズグズしていたらどんどん戦況は不利に――」



その時だった。

「……その必要はないわ、始君」



聞き覚えのある人影に呼びかけられ、僕は振り返る。

「時雨さん……!」

「時雨鏡花!」



ラプラスも気づいて警戒の表情を浮かべるも、すぐにその顔が驚きの色に染まる。

時雨さんは僕に負けず劣らず、全身血まみれの姿で足を引きずっている。

問題は……彼女の血は、どう見ても返り血ではないということだった。

「時雨さんしっかりして!」



駆け寄ろうとした瞬間、ラプラスが素早く僕の手を掴んだ。

「待って! 彼女に近づいてはダメ!」

「こんな時に何を言ってるんだよ⁉ 時雨さんはケガをしてるんだ!」

「こちらを油断させるための罠かもしれない……知ってるでしょ? 時雨さんは『天使』だから、私には彼女の行動の予測出来ないの」



確かにそうだが、息を切らしながら一歩一歩歩いてくる時雨さんはどう見ても演技しているようには見えない。

「夕立君……久しぶりね。やっと、会えたわ」



彼女は数メートル手前で立ち止まると、鮮血で濡れた顔に微笑みを浮かべた。

「時雨さん……今朝は騙す様なメールを送って悪かった。でも、君を連れ出すにはどうしても必要なことで――」

「私を連れ出す……? 一体何を言っているの? 貴方の任務はそこにいる『神様』を守ることでしょう?」



疑問符を浮かべる彼女に、僕は叫んだ。

「違う! 僕は……僕は、時雨さんを助けたいんだ!」

「私を助けたい……?」



時雨さんが、大きな黒い双眸を見開く。

「何をバカなことを言っているのかしら? 貴方はラプラスを守ろうとしている。だけど、そのラプラスは私の命を狙っているのよ? 矛盾しているわ」



正確には、時雨鏡花暗殺の任を与えられたのは他ならぬ僕……だったが、もちろんそのことは伏せておく。

「聞いてくれ。時雨さんを殺そうとしているのはラプラスの意思じゃない。全ては『代行者委員会』の決定なんだ。だからラプラス自身の意思とは関係ない!」

「今更そんな話が信じられると思う? 私はその女に四回も……いえ五回も殺されかけたというのに」



いきり立つ時雨さんに、ラプラスは静かに告げた。

「時雨鏡花。私と、始君と一緒に……逃げて欲しい」

「は?」

「始君はずっとそのつもりだった。私は確かに反対したけど、でもこれ以上私の力を利用して誰かが死んで欲しくないのは本当。だから、貴方も私たちに付いてきて欲しい。私たちが敵対するのは無益な事だから」

「私を何回も殺そうとした上に、夕立君まで丸め込んだ女の言うことなんか信じられるわけないでしょ!」



その声と共に、時雨さんの全身が激しい群青で染まった。

「『ソロモンリング』……⁉ 時雨鏡花も『指輪使い』だったの……⁉」

「時雨さんやめろ! その体で『リング』を使ったら取り返しの付かないことになる!」

「うるさい、夕立君は黙ってて! 私はラプラスを殺す……『神殺し』を実行する……それ以外に私が太陽に戻る方法は存在しない!」



激しい剣幕で空気がビリビリと胎動し、同時に彼女の手から死神の鎌の如き鋭利な刃物が顕現する。

彼女のオーラから察するに恐らく相当『ソロモン・リング』を扱い慣れている。ほとんど実戦経験のない僕との力量の差は火を見るより明らかだ。

それでも、僕は引き下がらなかった。

「時雨さん。やめて下さい」

「うるさい! 虫けらの分際で私に指図しないでよ!」



「僕に指輪を使わせないで下さい……このままでは僕は貴方と戦わなきゃいけなくなる」
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