消女ラプラス
「始君! 来る!」



次の瞬間、時雨さんの両手から激しい青の雷光が迸った。

ラプラスの指示がなくても分かっていた僕は、プラズマの壁を張って全身全霊でそれを受け止める。

その光がようやく消えた時――時雨鏡花は静かに地面に横たわっていた。

全てをやりつくしたような穏やかな笑み浮かべて眠る彼女を見て僕は叫ぶ。

「時雨さん!」



駆け寄って抱き起すと、幸いにもまだ浅く呼吸があった。

『リング』と出血のダメージは相当酷そうだが、すぐ治療すれば何とかなる。

「ラプラス! この近辺で身を隠せる場所でかつ、時雨さんを治療できる場所を検索してくれ! 君なら簡単だろ――」



僕が振り返って叫んだ瞬間、辺りに重々しい足音が響き渡った。

「始君……あれは……!」



ラプラスも、信じられない物を見る表情で目の前の光景を凝視している。

商店街に向かってなだらかに下る丘を降りてやって来たのは……見たこともない数の歌姫たち。

辺りは甘美とも悲哀とも言い尽くせない歌声で埋め尽くされ、うねる大量の触手はまるでウミヘビの大群の様。

それらが、群れを成して一斉にこちらへと迫ってきている。

「ラプラス!」



僕は彼女に駆け寄ると肩を掴んで思わず叫んだ。

「どうして教えてくれなかったの⁉ 君なら分かっていたはずだろ!」

「……読めないの」

「え?」

「あの歌姫たちの動きが、読めない」



震える声でラプラスが呟く。

彼女にとって、思考が読めないものは全て恐怖の対象なのだ。

「でも、予知が効かないのは『天使』だけのはずだよね? だったら何であの歌姫は――」



その時、僕はハッとして地面に横たわる時雨さんを見つめた。

時雨さんはここに来る前の時点ですでに血まみれだった。あれがもし、あの歌姫のどれかにやられたものだとしたら……?

「時雨さんは『天使』だから本来、『システム』の統制下で機能する歌姫相手なら簡単に対処できたはず」



僕の言葉にラプラスが頷く。

「だけど、もしその歌姫が『システム』の統制から解放されて、自立型AIに組み替えられていたとしたら? 更にその情報が『ラプラス・システム』にも共有されていなかったとしたら……?」



その言葉に、彼女は目を見開いた。

「その歌姫は『天使』の特性関係なく自力で『天使』を殺せるし、私の予知でも感知できない存在になる!」

「五月雨の奴……こんな隠し玉を持っていたなんて」



時雨さんは『天使』である故に普通の歌姫出来ない。

その前提があるからこそ、僕は時雨さんと五月雨の鉢合わせさえ避ければ良いと思っていた。

だが現実として、五月雨は対『天使』も想定した歌姫を大量に隠し持っていた。

そして今、僕達はその自立型歌姫の大群を前に成すすべもなく立ち尽くしている。

「……投降するしかない」



目前まで迫った歌姫たちを前に、僕はがっくり項垂れた。

「始君……! 何を言ってるの⁉」

「現実を見てよ。時雨さんは瀕死状態、僕も『ソロモン・リング』の反動が来るのは時間の問題。ラプラス自身に戦闘能力はない。この状況で僕が二人を庇って逃げるのは無理だよ」

「まだ諦めるのは早いでしょ⁉ ねえ、一緒に街の中に隠れましょう! この近くに廃工場があるから、時雨さんも連れて行けば少しは時間を――」



その時――彼女は僕の目を見て口を噤んだ。

「もう、無理なんだ」



丘から舞い上がる大量の土煙を月明かりが照らす中、僕は哀切に笑った。

それ以上僕は彼女の顔を直視出来なくて、顔を逸らした。

僕にはもう、ラプラスと面と向かって会話をする資格が無い様に感じた。

「ごめん、ラプラス。約束を守れなくて。君のことを消してみせるって……約束したのに」



短い言葉の間にも、自然と涙が溢れてくる。

数秒の沈黙の後――コツン、と僕の肩に固いものが当たった。

目を開けると、ラプラスが僕の肩に頭を寄せて顔を胸に埋めていた。

「ううん……こちらこそありがとう」



その細く白皙した両手を僕の背中に回して彼女は囁く。

「始君のおかげでたくさんの夢を見ることが出来た。それどころか、たった一日だけだったけどちゃんと日常の世界へ消えることも出来た。だから貴方はやっぱりちゃんと、私だけの天使だったと思う。天使としての務めを果たしてくれたと思うの。だから……泣かないで」



か細い彼女の囁きを聞けば聞く程、涙が止まらなくなって……僕はそれを隠す様に彼女を強く抱きしめた。

「ねえ……今私たち、ちゃんと消えて見えるかな?」



胸の中から聞こえる彼女の声に、僕は嗚咽を抑えて答える。

「どうだろう……街中で抱き合う血まみれの少年と少女じゃ、ちょっと『消えてる』とは呼べないかも」

「あははっ……そうだね……うん、そうだよね……」



ラプラスは笑い声を上げて僕から離れ、潤んだ瞳を拭ってから歌姫たちを振り返った。

軋んだ歌声を上げた歌姫たちは、もう僕たちのすぐ近くまで迫って来ていた。声を張り上げれば確実に届く距離だ。

「それじゃあ神様。僕の『天使』としての務めはここまでです」



僕はそう言って、世界をこれからも背負っていくであろう少女にお辞儀をし、それから歌姫たちへ手を上げながら歩き出そうとして――



「何をしている! 下がっていろ!」
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