クールな社長は懐妊妻への過保護な愛を貫きたい
(夏久さんはあんまりいい人生を送ってこなかった? それともあの言葉に深い意味はない? ……私はそんなことさえ知らない)

 あの日も距離が縮まったと思っていたのは私だけで、最初から遠いところにいたのかもしれない。
 私が知っているのは一条夏久という名前と、立場と、年齢と。

(……でも、優しい人だってことは知ってる)

 そっとお腹に手を当てる。
 あの夜をあやまちと呼べないのは、生まれて初めて感じた幸せな夜だったからだ。そして、それを与えてくれたのは夏久さんである。

「……夏久さん」
「なんだ?」
「私……あの夜は幸せでしたよ」

 夏久さんからすれば、なにを突然と思うに違いない。
 でも、今言っておきたい気がした。

「……本当に幸せだったんです」
「……そうか」

 返事はそれだけで、夏久さんがどう思っていたかは教えてもらえなかった。
 白々しいと思ったのか、嘘つきだと思ったのか、どちらにせよ信じてもらえてはいないだろう。

 気まずい沈黙が下りたまま、駅についてしまった。
 私の身体を気遣ってエレベーターを呼んでくれはしても、そこにあるのは義務と責任だけで、心はどこにもない。

 エレベーターに乗り込めばふたりきりになった。
 改札階からホームへ上がるだけなのに、その短い時間がとても長く感じられる。

「……やっぱり車で帰ればよかったな」

 なにを思って夏久さんがそう言ったかわからなかったけれど、この気まずい時間を心地よいものだと感じていないのは間違いなかった。
 その後はガラガラの電車に乗り、しばらく揺られる。
 会話はなかった。なにを話していいかもわからなかった。
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