あの日のこと
「菜子ちゃん」
男の声が近くで言う。
───── なんで私の名前
驚いて顔を上げると
優しく笑う男の顔が近くにあった。
男は私の左手を指でとんとんとすると
そちらを見るように目で促した。
ようやく理解した。
私が着ていたのは
高校のマネージャー時代に使っていたジャージで
袖には名前がローマ字で刺繍してある。
「のこちゃんと迷っちゃった」
笑いながら言う男にまた胸が締め付けられる。
「筆記体、わかりにくいですよね」
まだ顔が赤くなってそうで、恥ずかしくて
視線をコートから外さずに言う。
「まだ寒い?」
この男はなんでこうずっと優しい声なんだろう。
「だいぶ温かくなりました」
男がくっついて座った時に
一瞬で体温は上がっていたから
遠ざける嘘なんかじゃない。
「そっか」
「じゃあそろそろ試合に行ってくるね」
そう言って男が立ち上がるのかと思った瞬間 ───
こめかみに温かくて柔らかい感触があった。
私は一瞬理解が出来なかった。
───── キス…された…?
やっと理解が追いついてきた頃
立ち上がった男の方を振り返ると
さっき差し出していた上着を私の肩にかけると
優しく笑い
「また」
そう言って展望台を降りていった。