秘密の出産をするはずが、エリート外科医に赤ちゃんごと包み愛されています
「杏奈は覚えていないかもしれないが、昔、何度か会ったことがあるんだ」
それは俺がまだ脳外科医になりたての頃。杏奈の母親がクモ膜下出血で救急搬送されてきた。
予後が悪く、なかなか意識が戻らない中、杏奈は毎日のように母親の見舞いに訪れた。
長い黒髪ヘアが特徴的な杏奈は、立っているだけで人の目を惹きつける魅力があり、高校生にしては垢抜けていた。
だが当時の俺はまだ主治医として患者を受け持ってはおらず、接点など皆無。もちろん患者の家族という目でしか見ていなかった。
普通なら母親が倒れたら取り乱したりするだろうが、杏奈は涙を流すこともなく落ち込む父親を励まし、気丈に振る舞っていた。
だから印象に残っていたのかもしれない。
母親の入院から二ヶ月ほどが過ぎた時、廊下に佇む杏奈を見つけて思わず声をかけた。
これ以上にないほど思い詰めた表情をしているように見えたからだ。
杏奈は俺に本音を漏らし、静かに涙を流した。
これまでにも患者の家族の涙を見たことはあったが、こんなにきれいで純粋な涙は初めてだった。
必死に堪えようとしているのにとめどなくあふれて止まらず、今日まで必死に我慢してきたのだろう。
そんな健気な姿に胸を打たれ、思わず杏奈の頭を撫でていた。
悲しみの縁にいる家族の気持ちを理解しようとはするが、感情移入まではしない。中立的な立場でいないと判断が鈍る上にプロ失格。
患者の命を扱う立場上、最も大事なことだ。
それなのに杏奈は、杏奈だけはなぜか特別だった。