消えないキモチ
【渡ってはいけない川】
季節が変わった頃、同窓会をしようと言う連絡が来た、中学時代の仲間が揃う。
『あと、何人か連絡つかない奴がいるんだ。笹原と額田と……名取と……』
幹事の嘆きに、何人かが判ると声を上げる。
私もそれに倣った。
『名取、判るよ』
それでも何人かは行方知れずだ、30人あまりいたのに、卒業から10年も経つとそうなってしまうのか。私も大学進学の為に地元は離れて戻って来てはいないが、実家とも連絡がつかない人がいるとは、なんとも歯がゆい。
☆
果たして同窓会当日。地元・鵠沼海岸の居酒屋に揃った。
外見があまり変わらない人もいれば、随分お腹や髪に変化が見られる者もちらほら……それほど長く会っていなかったとは思えないけど、10年の月日は明らかに年齢を感じさせた。
「きゃあ、名取くん、久しぶりー!」
クラスでも美人グループに、早くも彼は取り囲まれた。それは名取の見た目のイケメンぶりもあるけれど、
「ねえ、ねえ。カメラマンの名取雪之丞って、名取くんのことでしょー??? よく雑誌とかさぁ、テレビで名前見るのよぉ」
枝垂れかかられても名取は嫌がる様子も見せずに、にこにこしている。
そっか……名取って、本当に有名人だったんだ……。
「ねえ、今度、私も撮ってよぉ」
「駄目ダメ、俺は景色専門」
え、私は撮ってくれたのに……とは思ったけれど、この場を切り抜けるための嘘だと思ったので、私は何も言わずにいた。
断られて撮影の話はなくなったけれど。女子はなおも名取から離れない。私は声を掛けるタイミングすらなかった。
☆
その店はお開きになって、二次会に行こうとなる。
「あ、ごめん、私は帰る」
「えー、もうー!?」
仲が良かった茜が私の腕を掴んで引き止めた。
「ごめん、新婚だしさ。家も遠いし、あんまり遅くなりたくないかな」
「遠いって言うほど、遠くないじゃん!」
住まいの最寄り駅は桜木町駅だ、すんなり乗り継げば30分程で着く。
「今度来る時は実家に泊まる事にするよ。茜とはまた今度ゆっくり会いたいな、昼間なら大丈夫だから」
絶対ね、連絡するね、と約束して、私は皆と別れた。
夜道を鵠沼海岸駅に向かって歩く、いくつ目かの角を曲がった時、
「やあっと追いついたあ!」
大きな声が背中に掛かって、私は驚いた。声の主に覚えはある、私はゆっくり振り返ってそれを確認した。
「──名取……!」
膝に手を置いて、私には頭頂部を見せた状態で名取は全身で息をしていた。
「ったく、みんな解放してくれなくってよぉ。やっとまけた」
「まくって……」
「店入ったら最後だと思ったから、なんのかんのと言って逃げてきた」
「逃げて……」
なんで?
「なあ、少し歩こうぜ」
「え、でも……」
「そんな門限厳しい感じ?」
「ううん、そういうわけじゃ……」
と言うか、よく判らないのが正直なところ。結婚してから飲みに出るなんて初めてで、普段は専業主婦で家にいるから、あまり夜遅くに外出していてはいけないような気がしていただけで……。ゆっくりしてきな、とは言ってくれた。
「行こ」
誘ってくれたのが名取だから──私は素直について行った。目的地はあるのか、ないのか、名取は適当と思えるほど角を曲がって歩いた。
先程は声もかけられなかった名取と並んで歩いている事に高揚し、私はかなり饒舌に喋っていた。口元が緩むのも判った、しかしどれも止める事はできない。
「新婚生活どうよ?」
それまでうんうんと明るく会話してくれていた名取が、不意に低い声で聞く。
「どうって……幸せだよ」
「幸せって何?」
「何って」
幸せは幸せ、だよ。そんな回答もできずにいると、
「旦那のこと、好きなの?」
「好きじゃなきゃ結婚しないよ」
「じゃあ、なんであんな泣きそうな顔をしてた?」
「──泣きそう?」
「新婚旅行だって言ってたのに、俺が撮ってる間中、すげー哀しそうな顔してた」
「……それは」
初恋のあなたに逢ってしまったから。そのあなたに見られているのが嫌だったなんて言えるはずがない。
「哀しかった訳じゃなくて、眠かったの。時差ボケで」
「眠くねえ」
話しているうちに川に出た、引地川だ。そこにかかる鵠沼橋を渡り始める。
駄目だ。
心が制する。
この橋を渡ったら、もう後戻りはできない。そんな気がした。
「──私、帰る」
橋の中程で足を止めた、名取は一歩先に行ってから止まる。
私を見て、ただじっと立っている。無言に耐え切れなかった、じゃあね、と挨拶をしようとすると。
「帰んなよ」
強い口調で言われた。
「は、なんで──」
「あんな男の所に帰るな」
何言ってるの、と怒鳴ってやろうと思って息を吸い込むと、その瞬間に抱き締められた。
「な、名取……っ!?」
「あの日──お前の目から、助けてって声が聞こえた」
「は?」
何のこと? 私、そんな事思ったことないよ。
「ニューヨークで逢えたあの日だよ。俺はたまたまあそこに居たんだ。数人の若手写真家が集まっての作品展だった、俺は本当はいるはずじゃなかった、でもカリブでの仕事がキャンセルになったから時間を持て甘してたんだ。ふらりと行ったら、そこにお前がいた。目が合った瞬間お前笑ったろ、マジ嬉しかったんだけど」
え、そんなの、覚えてない──。
「なのにすぐに目を反らしたんだ、なんでって思ったけど、まさか旦那がいたなんて」
うん、そうだよ、その人が待つ家に帰らないと。
「写真撮ってた時、本当に泣くんじゃないかと思ってた。あれ、こいつ新婚じゃねえの?って心配になったよ。本当に旦那が好きなの? なんか弱みでも握られてんの? DVとか?」
「そんな事ないよ、ちゃんと交際して、ちゃんとプロポーズもされて、ちゃんと愛されて」
ごくごく平凡な恋愛を経て、結婚した。
「じゃあ、なんであんな淋しそうな顔してた? 今日だって大人しくて。中学ん時はもっと笑ってたろ」
「そりゃ、もうそんな子どもみたいにはしゃぐ歳でもないじゃん」
「まあ、そうだけど──ニューヨークで逢えたのは運命だと思った」
──え?
「これまで特に好きとか思った覚えはないんだけど、ずっとお前の事は忘れたことは無かった。中学ん時の記憶にはいつもお前がいたんだ。そのお前と日本を遠く離れた地でばったり出会った──それって、すんげー確率だと思わねえ?」
「……うん」
うん、と言ったけれど、名取が言った事を反芻していた。
忘れた事がない……? 記憶にはいつも私が……!?
「これを運命って言うんだって思った。なのにすぐさま全否定されてさ、旦那だなんて。でも何日経っても、何カ月経っても、お前が忘れられなくて、俺ならお前にあんな顔させないのにってずっと思ってて──そしたら、同窓会なんてさ。マジで運命なんだよ」
それがあると声をかけたのは、私だ……!
「こんな事言うのは間違ってるって判ってる。それでも今日はお前を帰したくない」
待って、駄目だよ、そんなこと言わないで。
「秘密でもいい。新婚だって離婚してもいい。俺を選ぶ勇気はないか?」
「そん……」
馬鹿な事を言わないで、そう怒鳴ろうとしたのに気づいてしまった。
私を抱き締める彼の手が、腕が、体が、震えていた。その場限りの思い付きの言葉ではないのだと判る。道徳に反するその気持ちを、彼は相応の覚悟を持って伝えてくれたのだと。
そして、私も欺けない心がある。
私もずっと。
あなたが、好きだった──。
「──うん」
彼の耳元で小さな返事をしていた。どっちともつかない返事なのに、彼はさらに強く私を抱き締める。
もうその腕も体も、震えてはいなかった。私の決意を理解してくれたのだ。
彼に肩を抱かれて歩き出す、体を密着させたまま橋を進む。
なにかを隔てる、その川をふたりで渡る──もう戻れなくていい、あなたとなら。
終