桜が散ったら、君に99回目のキスを。
その席が特等席だと気がついたのは、どこかの窓から吹き込んだ春風が、相馬くんの黒髪を攫った時だった。


柔らかそうなその黒は額を撫で、文庫本に視線を落とす伏せ目は文字を追う度にまつ毛が揺れた。


思わず見とれてしまう自分に首を振って、ふと彼の細長い指が触れる文庫本の表紙に見覚えがあることに気づく。


「あ…その本……」


眩しいほどの薄浅葱の空に手を伸ばすように枝を広げる満開の桜。


緑の風がそよぐ草原に、淡く滲んだ少女が纏うのは膨らんだ白のワンピース。


耳を澄ませば春が聴こえてくるようなそれは、いつか夢中になって読んだ小説だった。


「…知ってる?」


相馬くんは小説から私に視線を移してそう言った。


私はコクリと頷く。


「1番大切な本なんです。今は亡くなった祖母が誕生日に贈ってくれて……もう何度も読みました」


「俺もこれは4周目」


「それじゃあ、あのシーンも…」


あの小説を読んだなら、きっと忘れはしない。


病に侵され、余命がもうあと僅かもないヒロインに、主人公が語りかけるラストの場面だ。


小説自体はそれほど有名ではなくて、書店でも棚の隅にしか置かれていない本だったけれど、読者が口を揃えて「ラストが美しい」と言う程、愛が溢れたシーンだった。
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