桜が散ったら、君に99回目のキスを。
と同時に、電車に乗り込む男の人とすれ違い、タバコの匂いが熱い胃液を誘った。


「ぅ……」


私は慌てて彼の手が触れる腕と反対の手を口元に当てた。


こんな所で吐けない。吐きたくない。


そう思うのに足が言うことを聞いてくれない。


急に立ち止まってしまった私を振り返って、彼は「吐く?」と聞いた。


私は首を横に振る。


けれどもう足の力は完全に抜けて、柱の傍にしゃがみ込んでしまう。


「楽になるなら吐いた方がいい」


同じようにしゃがみ込んだ彼は言った。


私はもう一度首を横に振る。


灰色のコンクリートにパタパタと涙が何度も落ちて、雨と同じ染みを作った。


そんな私を見つめて、彼はまた口を開く。


「深呼吸しな。ゆっくり。空気が入ればましになるから」


その声を聞きながら、私は大きく息を吸った。


雨に濡れた、春の冷たい風。


肺いっぱいに新鮮な空気を送ると、潮の香りが鼻先を掠めた。


10分も歩けば着くところにある西浜の海の香りだ。


今日は雨だから香るはずはないのだけれど、ずっと乾燥した暖房の中にいた体が自然を求めているのかもしれなかった。


肺に貯めた空気を今度は口から少しずつ吐く。
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