chloris
からん、ころん。木製のドアベルが柔らかい音を鳴らした。
「彩水、準備はどうや?」
背の高い男性の問い掛けに、彩水と呼ばれた女性は言葉を発することなく頷く。それを見て満足げに笑った男性は、ドアに掛けられているCLOSEの札をOPENに引っくり返した。
こつり、こつ、と彼の履いている革靴の踵が木製の床をノックする。ゆっくりと彩水に向かって歩いた彼は彼女の目の前に立つと、彼女に手のひらを向けて差し出した。
「今日もよろしゅう」
その言葉に答えるように、彩水は彼の大きな手のひらに指を絡ませ、ぎゅっと握り返す。彩水が嬉しそうに頬を桃色に染めながら笑ったため、彼も笑みを深くした。すると、からんころんと再びドアベルが優しい音を鳴らし、客の来店を知らせる。
「いらっしゃい」
「あ。ど、どうも」
「カウンターかテーブル、どっちがええですか?」
「一人だし、カウンターでお願いします」
「はい。彩水、カウンターお一人、御新規様な」
こくり、と彩水が小さく頷く。そのままカウンターの向かい側のキッチンへと姿を消した彼女の後ろ姿を見て、男性客は少しだけ首を傾げた。彼は彩水のことを随分と静かな雰囲気を持つ、寡黙な女性だと思ったようである。
「珍しいな」
「え、へ? 僕、ですか?」
「そうそう。ここな、見つけにくいらしくて御新規様は久々やねん。よう見つけたな」
京都のある町の、入り組んだ場所にある此処は見付けることが難しいらしく、新規の客が一人でやって来ることは珍しい。常連の誰かによって連れて来られた、というパターンはたまに見るものの、それですら稀であった。その説明を聞いていた男性客は素直に頷く。この店を見つけたのは、フラフラと悲観に暮れながら周りを見ずに歩いていたからこそ辿り着けただけで、普通に歩いていたら絶対に見付けることなど出来なかったであろうと簡単に予想出来たからだ。
「その、たまたま……」
「やろうね」
男性店員がへらり、と気の抜けた笑みを浮かべた時、彼の横から細い腕が伸びてカウンターにグラスを置いた。サンドブラストによって桜が描かれているコリンズグラスには、ほんのりと檸檬の香りのする水が注がれている。こくり、と一口飲んでみれば檸檬水であったらしく、四月特有の日差しの強さで少しだけ乾いた体が潤った気がして彼は微笑みをこぼした。お礼を伝えると、店員であろう彼女は笑い返すだけである。
「ああ、ごめんな。彩水は声が出えへんねん」
「そ、そうなんですか?」
「そうそう、生まれつきとはちゃうねんけどさ。でもええ奴やから良うしたってな」
すると、目の前の彼女から桜色のメモ用紙が手渡された。
『粃 彩水と申します。ここ、Cafe・chlorisの店主を務めています。隣の彼は、私の幼馴染で店員の志麻 凧です。声が出ませんので、迷惑をかけることが多々あると思いますがよろしくお願いします』
「は、はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
おどおどと返事をした彼に、彩水と凧は優しく笑いかけた。凧と数回言葉を交わした後、彩水は再びキッチンの方へと戻っていく。凧もグラスを磨いたり、食器の枚数を確認するなどの業務をやり始めたので、彼は渡された薄桃色の小さく薄いメニュー表を開けて何を頼むか思案し始めた。
丁度おやつ時の二時五十分。
希望していた大学に入学出来たものの、やはり勉強は高校よりも桁違いに難しい。自分から積極的に話しかけることが出来る性格でもなかったので、勿論の如く交友関係も上手くいかない。彼はそんな日常にうんざりと嫌気が差していた。多少はそんな気分も晴れて、疲れを取れるだろうかと、甘い物でも食べようと考えてメニューのスウィーツ欄を覗いてみれば沢山の名前が並んでいた。だがどれを選んでいいのか全く分からない。そんな時、凧が彼に声をかけた。
「何や、疲れとるんか自分?」
「えっ……あっ、はい。そんな感じです」
「ならこれどうぞ。彩水からのサービスな」
「え!?」
流石にサービスでは受け取ることは出来ない、と断ろうとしたのだが、凧の爽やかな笑顔と、ひょこりとキッチンから顔を出した彩水の柔らかい微笑みには何故か逆らえない圧を感じて諦める。
そして、視線をウロウロと彷徨わせて居心地悪そうに座っている彼の机の少し横に凧が何かを取り付けた。よくよく見てみればスマートフォンのような見た目をしている。これは何だと首を傾げれば、突如として画面に文字が浮かび上がった。
「えっ!」
「はははっ、ええ反応するね。これは彩水が手持ちのスマホで打ってるんよ。これで会話に時間かからへんやろ?」
「あっ……成程」
『驚かせてしまったようですね。ごめんなさい』
「いや、大丈夫です」
『よかったです』
彼が画面に恐る恐る触れてみれば、どうやらこちらからは文字を打てないようになっているらしく、スライドさせることしか出来なかった。打たれた文字は彼女が操作しない限りは消えないらしい。一番の理由は彩水と快適に会話をするためであろうが、会話を見返すことに対しても便利だと思えた。すると、再び彩水によって文字が打たれていく。
『先程、凧に出して貰ったのはアシュワガンダティーです。少しだけ苦味と渋味があるので、牛乳で煮出した後に蜂蜜を入れてみました』
「そうなんですね……あっ、本当だ、甘くて美味しい」
『ありがとうございます。それで、気分は晴れましたか?』
そう書かれて、彼はハッとした。確かにモヤモヤとした閊えが取れたような気がしたのだ。自分が悩んでいることが何故分かったのだろうと、驚きに染まった瞳で彼女を見上げたのだが、微笑まれただけで済まされてしまう。不思議な女性だ。
それと同時に、彼自身が抱え込んでいる悩みを聞いて、一緒に考えてくれるのではないだろうかという思いが湧き上がってくる。今日知り合ったばかりで、それに会話という会話をしたわけでもない。若しかしたら迷惑だと思われるかもしれない。それでも、このモヤモヤとした心の閊えを取り払えるのならば、と考えて思い切って話しかけた。
「あ、あの……少し聞いて欲しいことがありまして」
『はい、何でしょう?』
「僕、大学生なんですけど、勉強も交友関係も上手くいかなくて……こんな性格だし、運動も勉強も得意なわけじゃないし、もう頭の中がこんがらがってどうしたらいいかわかんないんです」
ドロドロと心のモヤが、彼の口から言葉となって溢れ出した。俯いているために彼女の表情は伺えないが、鬱陶しげな表情をしているのではないかと恐ろしく感じて彼は内心後悔する。
しかし、彩水の表情と、彼女によって綴られた言葉は彼が予想していたものと全く違うものであった。
『そうですね……若しかして、焦り過ぎているのではありませんか?』
「焦り、ですか?」
『そうです。聞いている限りですが……勉強が分からない、自分は運動も出来ない、友達が出来ないのはこんな性格が悪いんだ。こういう思考が雁字搦めになって貴方を縛っているのだと思いますよ』
嫌な顔なんてせずに彼女はそう言った。微笑みながら、まるで息子や弟を見るかのように、穏やかで暖かい瞳で見詰めながら。彼は、思わず涙が溢れそうになって目元を覆い隠した。
唇を噛み締めて、拳を膝の上で握って、今にも零れ落ちそうな涙を引っ込めるために目に力を入れる。
『一息つきましょう? 人間の人生、万事塞翁が馬ですよ』
「それって」
『はい。今は不幸でも、次は幸福かもしれません。人間の人生なんて予測出来るわけないのですから』
ことり、と彼女が机に陶器の小皿を置いた。そこには黄色の小ぶりで可愛らしいお菓子が乗っていて、檸檬水と同じく爽やかな香りが鼻を通る。
『レモンヨーグルトマカロンです。リフレッシュ効果がありますから、どうぞ』
「……何から何まで、本当にすみません」
『大学生といってもまだ子供なんです。大人に甘えてもいいのですよ』
そっと彼の頭に彩水の柔らかな手が置かれ、そのまま優しく撫でられる。彼女のあたたかさに耐えきれず、彼の目尻から涙がボロボロと零れ落ちていった。
さくり、と一口齧ると、本当は甘いであろうレモンヨーグルトマカロンは何故かしょっぱく感じた。
「彩水、準備はどうや?」
背の高い男性の問い掛けに、彩水と呼ばれた女性は言葉を発することなく頷く。それを見て満足げに笑った男性は、ドアに掛けられているCLOSEの札をOPENに引っくり返した。
こつり、こつ、と彼の履いている革靴の踵が木製の床をノックする。ゆっくりと彩水に向かって歩いた彼は彼女の目の前に立つと、彼女に手のひらを向けて差し出した。
「今日もよろしゅう」
その言葉に答えるように、彩水は彼の大きな手のひらに指を絡ませ、ぎゅっと握り返す。彩水が嬉しそうに頬を桃色に染めながら笑ったため、彼も笑みを深くした。すると、からんころんと再びドアベルが優しい音を鳴らし、客の来店を知らせる。
「いらっしゃい」
「あ。ど、どうも」
「カウンターかテーブル、どっちがええですか?」
「一人だし、カウンターでお願いします」
「はい。彩水、カウンターお一人、御新規様な」
こくり、と彩水が小さく頷く。そのままカウンターの向かい側のキッチンへと姿を消した彼女の後ろ姿を見て、男性客は少しだけ首を傾げた。彼は彩水のことを随分と静かな雰囲気を持つ、寡黙な女性だと思ったようである。
「珍しいな」
「え、へ? 僕、ですか?」
「そうそう。ここな、見つけにくいらしくて御新規様は久々やねん。よう見つけたな」
京都のある町の、入り組んだ場所にある此処は見付けることが難しいらしく、新規の客が一人でやって来ることは珍しい。常連の誰かによって連れて来られた、というパターンはたまに見るものの、それですら稀であった。その説明を聞いていた男性客は素直に頷く。この店を見つけたのは、フラフラと悲観に暮れながら周りを見ずに歩いていたからこそ辿り着けただけで、普通に歩いていたら絶対に見付けることなど出来なかったであろうと簡単に予想出来たからだ。
「その、たまたま……」
「やろうね」
男性店員がへらり、と気の抜けた笑みを浮かべた時、彼の横から細い腕が伸びてカウンターにグラスを置いた。サンドブラストによって桜が描かれているコリンズグラスには、ほんのりと檸檬の香りのする水が注がれている。こくり、と一口飲んでみれば檸檬水であったらしく、四月特有の日差しの強さで少しだけ乾いた体が潤った気がして彼は微笑みをこぼした。お礼を伝えると、店員であろう彼女は笑い返すだけである。
「ああ、ごめんな。彩水は声が出えへんねん」
「そ、そうなんですか?」
「そうそう、生まれつきとはちゃうねんけどさ。でもええ奴やから良うしたってな」
すると、目の前の彼女から桜色のメモ用紙が手渡された。
『粃 彩水と申します。ここ、Cafe・chlorisの店主を務めています。隣の彼は、私の幼馴染で店員の志麻 凧です。声が出ませんので、迷惑をかけることが多々あると思いますがよろしくお願いします』
「は、はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
おどおどと返事をした彼に、彩水と凧は優しく笑いかけた。凧と数回言葉を交わした後、彩水は再びキッチンの方へと戻っていく。凧もグラスを磨いたり、食器の枚数を確認するなどの業務をやり始めたので、彼は渡された薄桃色の小さく薄いメニュー表を開けて何を頼むか思案し始めた。
丁度おやつ時の二時五十分。
希望していた大学に入学出来たものの、やはり勉強は高校よりも桁違いに難しい。自分から積極的に話しかけることが出来る性格でもなかったので、勿論の如く交友関係も上手くいかない。彼はそんな日常にうんざりと嫌気が差していた。多少はそんな気分も晴れて、疲れを取れるだろうかと、甘い物でも食べようと考えてメニューのスウィーツ欄を覗いてみれば沢山の名前が並んでいた。だがどれを選んでいいのか全く分からない。そんな時、凧が彼に声をかけた。
「何や、疲れとるんか自分?」
「えっ……あっ、はい。そんな感じです」
「ならこれどうぞ。彩水からのサービスな」
「え!?」
流石にサービスでは受け取ることは出来ない、と断ろうとしたのだが、凧の爽やかな笑顔と、ひょこりとキッチンから顔を出した彩水の柔らかい微笑みには何故か逆らえない圧を感じて諦める。
そして、視線をウロウロと彷徨わせて居心地悪そうに座っている彼の机の少し横に凧が何かを取り付けた。よくよく見てみればスマートフォンのような見た目をしている。これは何だと首を傾げれば、突如として画面に文字が浮かび上がった。
「えっ!」
「はははっ、ええ反応するね。これは彩水が手持ちのスマホで打ってるんよ。これで会話に時間かからへんやろ?」
「あっ……成程」
『驚かせてしまったようですね。ごめんなさい』
「いや、大丈夫です」
『よかったです』
彼が画面に恐る恐る触れてみれば、どうやらこちらからは文字を打てないようになっているらしく、スライドさせることしか出来なかった。打たれた文字は彼女が操作しない限りは消えないらしい。一番の理由は彩水と快適に会話をするためであろうが、会話を見返すことに対しても便利だと思えた。すると、再び彩水によって文字が打たれていく。
『先程、凧に出して貰ったのはアシュワガンダティーです。少しだけ苦味と渋味があるので、牛乳で煮出した後に蜂蜜を入れてみました』
「そうなんですね……あっ、本当だ、甘くて美味しい」
『ありがとうございます。それで、気分は晴れましたか?』
そう書かれて、彼はハッとした。確かにモヤモヤとした閊えが取れたような気がしたのだ。自分が悩んでいることが何故分かったのだろうと、驚きに染まった瞳で彼女を見上げたのだが、微笑まれただけで済まされてしまう。不思議な女性だ。
それと同時に、彼自身が抱え込んでいる悩みを聞いて、一緒に考えてくれるのではないだろうかという思いが湧き上がってくる。今日知り合ったばかりで、それに会話という会話をしたわけでもない。若しかしたら迷惑だと思われるかもしれない。それでも、このモヤモヤとした心の閊えを取り払えるのならば、と考えて思い切って話しかけた。
「あ、あの……少し聞いて欲しいことがありまして」
『はい、何でしょう?』
「僕、大学生なんですけど、勉強も交友関係も上手くいかなくて……こんな性格だし、運動も勉強も得意なわけじゃないし、もう頭の中がこんがらがってどうしたらいいかわかんないんです」
ドロドロと心のモヤが、彼の口から言葉となって溢れ出した。俯いているために彼女の表情は伺えないが、鬱陶しげな表情をしているのではないかと恐ろしく感じて彼は内心後悔する。
しかし、彩水の表情と、彼女によって綴られた言葉は彼が予想していたものと全く違うものであった。
『そうですね……若しかして、焦り過ぎているのではありませんか?』
「焦り、ですか?」
『そうです。聞いている限りですが……勉強が分からない、自分は運動も出来ない、友達が出来ないのはこんな性格が悪いんだ。こういう思考が雁字搦めになって貴方を縛っているのだと思いますよ』
嫌な顔なんてせずに彼女はそう言った。微笑みながら、まるで息子や弟を見るかのように、穏やかで暖かい瞳で見詰めながら。彼は、思わず涙が溢れそうになって目元を覆い隠した。
唇を噛み締めて、拳を膝の上で握って、今にも零れ落ちそうな涙を引っ込めるために目に力を入れる。
『一息つきましょう? 人間の人生、万事塞翁が馬ですよ』
「それって」
『はい。今は不幸でも、次は幸福かもしれません。人間の人生なんて予測出来るわけないのですから』
ことり、と彼女が机に陶器の小皿を置いた。そこには黄色の小ぶりで可愛らしいお菓子が乗っていて、檸檬水と同じく爽やかな香りが鼻を通る。
『レモンヨーグルトマカロンです。リフレッシュ効果がありますから、どうぞ』
「……何から何まで、本当にすみません」
『大学生といってもまだ子供なんです。大人に甘えてもいいのですよ』
そっと彼の頭に彩水の柔らかな手が置かれ、そのまま優しく撫でられる。彼女のあたたかさに耐えきれず、彼の目尻から涙がボロボロと零れ落ちていった。
さくり、と一口齧ると、本当は甘いであろうレモンヨーグルトマカロンは何故かしょっぱく感じた。