猫になんてなれないけれど
クリニックを出て最寄りの駅に着いたのは、19時を少し回った頃だった。

そこから、駅ビルにある化粧室に駆け込んで、鏡の前で化粧ポーチを取り出した。

ファンデーションを塗り直し、アイラインもきちんと引いて、チークをのせて、ピンクベージュの口紅を塗る。

一つ結びをしていた髪は、下ろして軽く整えた。

仕事の後だし疲れはちょっと出てるけど、それなりに、華やかな印象になったと思う。

時計を見ると、待ち合わせまであと5分。

慌ててメイク道具をポーチにしまい、化粧室を飛び出した。



19時半ほぼぴったりに、駅ビルの下、ロータリーにたどり着く。辺りをぐるりと見渡すと、富士原さんの車を見つけて駆け寄った。

運転席の斜め前から会釈をすると、車窓越しに目が合って、冨士原さんは、いつものように中からドアを開けてくれた。

「お疲れ様です」

「すみません、お待たせして」

「いえ。さっき来たばかりなので」

「どうぞ」と促され、私は頷き、助手席の位置に腰掛けた。途端に緊張してしまい、ドキドキと甘い気持ちになっていく。

冨士原さんは、涼しい顔でアクセルを踏み、車はすぐにロータリーから抜け出した。

お店には、20時に予約を入れている。ここからは車で10分くらいの距離なので、多少渋滞していても、時間には十分間に合いそうだ。


(・・・あれ?そういえば・・・)


「冨士原さん、今日はお仕事だったんですか?」

休みの予定と聞いていたけど。ふと、スーツ姿に気がついたので、確認のように聞いてみた。

「ああ、はい。署長に呼ばれて少しだけ」

「少し・・・、なにか、確認事ですか?」

「まあ・・・そうですね。確認といえば確認です。劇のことで、少し」

「ゲキ?」

警察用語の略語だろうか。

音だけ聞くと耳慣れなくて、聞き返すように呟くと、富士原さんは言葉を足した。

「劇というのは芝居です。来週やる、芝居の、劇」

略語でもなんでもなくて、まさかの芝居の「劇」だった。

なんでも、来週、市民を対象とした「ネット犯罪対策講座」なるものを警察署内でやるそうで、その講座の中で、冨士原さんたち職員が芝居を演じるそうだった。

「富士原さんも、お芝居をするんですか?」

「・・・はい。本来なら、映像会社が作った専用の映像を流せばいいんですけどね。うちの署長が演劇好きで。参加者は高齢の方が多いから、実際に目の前で演じた方が臨場感あって伝わるだろうという考えです。私からしたら、プロが作った映像の方が伝わると思うんですけどね・・・」

富士原さんがため息をつく。どうやら、芝居をするのは気が進まないようだった。
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