トワイライト(上)
次の朝に出勤しようと部屋を抜け出し、階段を下りた所で老夫婦の主人と顔を合わせて軽く挨拶を済ませると、ついでと言わんばかりにアパートの取り壊し準備期間を告げられた。
取り掛かるのは三ヵ月後で息子夫婦と一緒に暮らす事までも付け加えられ、屈託の無い微笑みを浮かべる顔に苦笑いで返してアパートを後に職場へと向かう。
その途中のコンビニで賃貸情報を手にして眺め、頭の中で様々な計算を弾きながら本を棚に戻す。
高校卒業を期に都会へ出て来て直ぐに仕事先を見つけ、それなりの地位にも着けて給料も上がったばかりで悪くは無い。
それなりに貯金も持って暮らしに余裕も有り、転居に掛ける費用を出しても先々の支障は殆ど無い。
老夫婦は直接触れずに期限にも余裕を持たせてはくれたけれど、早めに着手した方が良さそうだと考えて仕事帰りに不動産屋を訪ねる事を決めた。
静かな店内を通り抜けて事務室に入ると、良く見知った顔が軽く手を挙げて此方に近付いて来る。
「おはよう」
「おはようございます」
シャツのボタンを閉めながら口に銜えた名札を胸ポケットに下げ、そこに印された"谷口櫂土"の文字を見せ付けるように言った。
「ねぇ、あの事……考えてくれた?」
「あの事って、結婚ですか?」
「それ以外に何かある?」
谷口は自分の脇にある店内の照明スイッチに右手を伸ばし、一つ一つ丁寧に押しながら逃げないように左手を壁に付けて笑みを浮かべる。
ツーブロックの黒いショートヘアは緩くパーマが掛かり、目鼻立ちの整った顔に軽く口髭と顎髭が生え揃い、口元の黒子が魅力的に見える谷口は女性客から人気が高い。