Sweetな彼、Bitterな彼女
「まさか、黒田が惚気けるとはな……。もう一度、診察してもらったほうがよくないか? 脳外科で」
にやりと笑う雪柳課長に、にっこり微笑み返す。
「課長。わたしが階段から落ちるのを助けてくれた件について、きちんとお礼を言うように、蒼にも言っておきます。質問攻めにされるかもしれませんが、ご対応のほどよろしくお願いいたします」
「俺は、猫派だ。犬は好きじゃない」
「飼ってみたら、意外とかわいいと思うかもしれませんよ?」
「昔、飼ってたことがあるんだよ。だが、忙しくて、散歩にも連れて行ってやれなくて……ストレスがたまってたんだろうな。部屋中のものに噛みつかれて、叱りつけたら家出された。それきり行方不明だ。だから、もう犬は飼わない」
声に滲む苦い後悔は、いまも引きずっていることを示していた。
離婚の経緯はわからないが、少なくとも、雪柳課長は別れたくなかったのだろう。
わたしには、いつかその傷が癒えることを心から願うことしかできない。
「いつか、帰って来るかもしれませんよ? 犬には、帰巣本能がありますから」
「もっといい飼い主の下で、幸せに暮らしているかもしれない」
「そうだとしても、きっと忘れていませんよ、課長のこと。課長のような人を忘れられるはずがありません」
「黒田。その行き過ぎたリップサービスの目的は、何だ?」
「実は……この近くに、美味しい和食のお店があるんです」
「和食……会席か?」
「お寿司ですよ」
「寿司はちょっと……」
「課長! まさかここへ来て、お寿司を食べずに帰る気ですか?」
「いや、そうじゃなくて、妊婦が生ものを食べてもいいのか?」
「…………」
付き合いがあるのは、独身ばかり。
兄妹もいないし、親戚づきあいもほぼ皆無。
最新の知識は高校の時の授業というわたしには、妊娠出産の知識がみごとに欠落していた。
「今後の勤務についても、調整が必要だろう? おまえに何かあったら、白崎に噛みつかれる」
仕事の早い雪柳課長は、その場で本社の人事に産休についての資料を送るよう電話を架け、三橋係長を「今晩、大事な話がある」と脅し、お留守番をしてくれている上野さんに「終業時間までには戻る」と連絡を入れた。
「取り敢えず、栄養バランスのいいものを食うぞ。それから……本屋だな」
「……よろしくお願いします」