Sweetな彼、Bitterな彼女
(あとで、メールでも送ろう)
九月末は第二四半期の決算だ。うかうかしていると、今度はわたしが時間を作れなくなる。
「もう、蒼ってば! 笑わせないで」
甲高い笑い声が背中で弾け、ちらりと振り返った視界の端に、親しげに蒼の腕を叩く女性の姿が映った。
(オフィスへ、戻ろうかな……)
この状況でくつろげる気がせず、テイクアウト用にしてもらったコーヒーを受け取る。
蒼に声をかけずに、そのまま立ち去ろうとした時、スーツ姿の男性がカフェの入り口に現れた。
「黒田! ここにいたのか……探したぞ?」
ノートパソコンを手にした雪柳課長は、窓際のカウンター席へ座れと目配せする。ずいぶん急いでいる様子だ。
販売戦略室長とミーティングをしていたはずだが、何かあったのだろうか。
「どうかしました? 課長」
並んで腰を下ろすなり、雪柳課長は深々と溜息を吐く。
「部長が戻れなくなったと、ついさっき連絡があった」
部長は、単身赴任中のため、長期休暇を取ってS県の家族のもとへ帰っていた。
今日の部長会議に間に合うよう戻るはずが、天候不良で帰りの飛行機が全便欠航になってしまったらしい。
忙しい各部長の予定を調整した上で設定された会議だ。一人の欠席者のために、先延ばしにするのは、無理な話だった。
「せめて、一時間前に連絡してほしかったよ……」
そう呟く雪柳課長は、遠い目をしている。
「もしかして……」
「十五分後に始まる会議に、代理で出席しなければならない」
「…………」
部長は、粘り強さが身上の人だが、裏を返せば往生際が悪い。
欠航になるかもしれないとわかった段階で引き継げばよかったものを、ほかの交通手段などを検討し、ギリギリまで判断を保留にしていたのだろう。
「資料は送ってもらったが、詳しいことは黒田に説明してもらえと言われた」
「……困った部長ですね」
「まあな。でも、文句を言ってもしかたない。ざっとでいいから、教えてくれ」
ディスプレイに表示されたグラフや数字を覗き込み、部長が参考にしているものを確認する。
勘のいい雪柳課長に、一から十まで説明する必要はない。
定型的な処理をしているもの、今回特別に取り上げている数字jなどを簡単に説明するだけで、十分だった。
わたしの説明を聞きながら、素早くキーボードを叩いていた雪柳課長だが、電話が架かってきたため、手を止めた。
相手は部長らしく、いくつか質問をしながら、再びキーボードを打ち始める。
「あと五分か……コーヒーを頼む暇もないな」
溜息交じりのぼやきが聞こえた。
わたしがコーヒーを飲みながらぼんやり窓の外を眺めている間に、話は終わっていたらしい。
「働きすぎじゃないですか?」
「それはないだろ。四か月近く経つのに、未だに黒田がいないとまともに仕事ができないんだから」
「まだ、四か月ですよ。無事第一四半期を乗り切ったんですから、十分すぎるくらいだと思います。横田課長は、滞りなく業務を回せるようになったのは二年目からだと言ってましたけど?」
四月一日付で財務経理部に配属された雪柳課長は、鬼は鬼でも、「仕事のできる心優しい鬼」だった。
あっという間に業務を把握し、いまではイレギュラーな案件でない限り、わたしや三橋係長の出番はない。
営業出身らしくフットワークが軽く、必要なく判断を先延ばしにしないので、こちらのストレスもなく、仕事の効率も上がる一方だ。
わたしたち部下の残業が多すぎると言って、人事部長に増員を要請。上手くいけば、年内に補充が叶うかもしれないとのこと。
噂とは、まったくアテにならないものだと思っているのは、わたしだけではないはずだ。