Sweetな彼、Bitterな彼女
「蒼」
「ん?」
「飲みに行くから、もう帰るわ」
蒼の横、ミカとは逆側に座る緑川くんの肩越しに、覗き込む。
「飲みにって……いまから?」
ようやくこちらを見た蒼の表情は、強張っていた。
最近、笑顔を向けられた記憶がない。
(蒼は……わたしといても、幸せじゃないのかもしれない)
惰性で繋いだままになっている手を放すのは、三年先を生きて来た、わたしの役目なのかもしれなかった。
「日付は、まだ変わっていないわよ?」
「そうですよっ! だから、一緒に飲みましょう? 紅さんと会うの、久しぶりなんですから」
熱心にわたしを引き留めようとする緑川くんは、たぶん蒼とわたしの関係が上手くいっていないことに気づいている。
――ミカのことも。
「お誘いは嬉しいんだけど、また今度、誘ってくれる? おごるから」
「帰らないでください、紅さん。何なら、いまから俺と二人きりで飲みに行きませんか? ね?」
わたしの手をぎゅっと握りしめ、上目遣いで訴える緑川くんは、子犬のようだ。
「緑川くんの彼女に悪いから、ダメ」
「俺、ずーっと彼女いないんですよ……。いつもお友だち止まりで。俺の周りにいる女たちって肉食だから、俺みたいなのはお呼びじゃないんです」
しょんぼりと肩を落とす彼に、心の底から同情してしまった。
世の若い女性たちの目は、いったいどこについているのだ。
「もし、本気で彼女が欲しいなら、うちの社の女の子を紹介するわよ? それとも、合コンのほうがいい?」
詩子に頼めば、紹介でも合コンでも、緑川くんに合いそうな女子社員を適当に見つくろってくれるはずだ。
「ほ、ほんとですかっ!? ありがとうございますぅっ! あ、連絡先……」
さっそく、お互いのアドレスやIDを交換し合う。
「紅さぁん、もし、もし上手くいって彼女ができたら、おごりますからねっ!」
「期待してるわ」
顔を真っ赤にして喜ぶ様子に、癒された。
(本当に、いい子だわ……)
「じゃあ、あとで連絡ちょうだいね? 緑川くん」
「はいっ!」
冷え切った胸の奥をわずかではあっても、温めてくれたことに感謝して、優しくその頭をひと撫でし、玄関へ向かう。
むくんだ足にハイヒールのパンプスを履くなんて拷問だ。
ここを出たら、即座にタクシーを捕まえることを心に固く誓った時、珍しく玄関まで追いかけて来た蒼に腕を掴まれた。
「紅っ!」
「どうしたの? 蒼」
「どこに飲みに行くの?」
「家の近く」
「もう夜中なのに?」
「家に帰るついでよ」
「だったら、まっすぐ家に帰ればいいのに」
これまでのわたしなら、そんな独占欲丸出しの言葉にあっさり絆されて、「わかった」なんて言ったかもしれない。
でもいまは、心がささくれ立っていた。
いいや。
ささくれ立っている、というのでは足りない。
荒れ狂っていた。
「詩子と大事な話があるのよ」
「大事な話って?」
異動の件を言ってしまおうかと思ったが、やめた。
いまの精神状態で蒼と話せば、言わなくてもいいことまで、言ってしまいかねない。
「蒼は、友だちと楽しく飲んでて。わたしの荷物は、来週中には片付けるから」
久しぶりにまともに見るチョコレート色の瞳。
キスしたくなる、官能的な唇。
(年下も……甘い顔立ちも、好みじゃなかったはずなんだけどな)
どうしてこんなに惹かれるのか、わからなかった。
「帰るな」と言われたら、やっぱり絆されるかもしれないと思った時、リビングから蒼を呼ぶ声がした。
「蒼っ! 何してるのーっ!?」
「おーいっ! 主役がいなきゃ、始まらないだろっ!」
「蒼ってば! あ、紅さん、まだ居たんですね? ごめんなさい」
リビングから姿を見せたミカを蒼が振り返った隙に、手を振りほどいた。
「蒼、転職おめでとう。これからも、蒼が作るものを楽しみにしてる」
早口に言い終えるなり、玄関のドアを開ける。
「紅っ……」
蒼の声が聞こえた気がしたが、わたしは振り返らずにそのまま部屋を出た。